2016.03.08 小野 鎭
一期一会地球旅98 「良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その1」

一期一会 地球旅 98

良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その1

今年も3月になった。筑豊盆地を囲む山々にも霞がたなびき始めていることだろう。この時期になると故郷の飯塚(当時は、福岡県嘉穂郡穂波町)を発って東京へ出たことを思い出す。1960年(昭和35年)、今年で56年目になる。
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福岡県立嘉穂高等学校は例年3月1日が卒業式、今もそうらしい。先日、NHKの朝ドラの主人公のモデル廣岡浅子女史について掘り下げた番組をやっていたが、彼女が乗り込んだ潤野(うるの)炭鉱のあった場所に今は嘉穂高校が建っていると紹介されていた。母校は1981年に今の位置に移転しており、それ以前は飯塚市の中心部に建っており、穂波川原に面して広い運動場があった。校歌にも、“穂波川原の明け暮れに”、という歌詞があるが今の後輩たちには少々なじみが薄いかもしれない。自分は、
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3月1日の卒業式を終えたその夜、筑豊本線飯塚駅から急行阿蘇に乗って東京へ向かった。夜行列車で17~18時間かかったのではないだろうか、翌日夕方東京駅に着いた。初めての上京であった。当時、嘉高では女子のみ修学旅行が認められており、東京や日光などを訪れていたが男子は理由(わけ)あって、ご法度であった。それから時代を経た今は男子も解禁されていると聞いている。 東京駅では、一年先輩のM氏がプラットホームで迎えてくれ、中央線で新宿へまわり、ここで初めて東京への第一歩を下した。昼を欺くようなネオンサインの洪水に圧倒され、呆然とする思いであった。先輩宅に二晩ほど厄介になり、それから予定していた新聞販売店に住み込んだ。田園調布にその店はあったが、わずか一カ月で新聞配達は辞めて、大学の入学式前に二部(夜間)に転部した。昼間はガスメーターを作っている工場の倉庫番をしながら、夕方、山手線五反田駅から徒歩10分ほどのところにある大学に通った。3か月ほど過ぎたころ、学生課の紹介で児童養護施設にアルバイト入職した。西武池袋線江古田駅の真裏にある広い園内には宿舎もあり、住み込み勤務であったので東京での生活は一挙両得であった。生活費を稼ぎ、奨学金を得て、卒業まで4年近くを過ごすことができた。苦学生という言葉があったが、当時は珍しいことではなかった。目的は様々であり働き方や働く場所などは今の大学生とは違っているところも多いが、働きながら学んでいる学生は昔も今もたくさんいたことに変わりはあるまい。現代と比較すると、もっと地味であったかもしれないが高度成長経済が始まった頃であり、植木等氏がスーダラ節を歌い、日本中が右肩上がりの時代であった。多くの若者たちが日々あえぎながらも元気はいっぱいであったと思う。勿論、加山雄三氏演ずる若大将のようにしゃれた大学生活を送っている友人たちもいたが自分とは違った世界であると割り切っていた。後年、思ったことは大学で学ぶ一方で児童養護施設において書記ついで児童指導員として勤務できたことは生きた社会学を同時に学んでいたのだろうということであった。加えて、旅行業で福祉や医療関係分野の視察や研修旅行を集中的にお取り扱いすることにつながっており、学生時代の経験が大きく役立ったことを感謝している。 学生時代そして、1964年に念願の旅行業に就いてからも帰省することは数年に一回で、
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それも数日間であった。同期生で同じ吹奏楽部のメンバー以外とは、高校時代の同期生と会うこともほとんどなく、夢中で働き、世界中を飛び回る70~80年代であった。そんな多忙な生活の中で、ある日、多くの高校で行われているように、私たちの母校でも毎年先輩後輩を含めた全卒業生が集う全校同窓会が毎年行われており、卒業して25年目にあたる卒業生が当番であることを知った。実際は、地元在住の同期生たちが主力となって準備してくれていたので関東や関西など遠隔地からは一人でも多く帰省して同窓会当日、これに参加してお世話役を務めることであった。86年7月28日であっただろうか、同窓会総会と懇親会、そして夕方は同期生だけの集い、25年振りの再会は、そこここに感動的な風景があった。そして大いに盛り上がった。高校時代の懐かしい顔は、一見してすぐにそれとわかる人もあれば、恰幅良く見事な体形になっている人、そしてお互いに名乗り合って破顔一笑という再会もあった。四半世紀経った今何をやっているのかという話は最初のうちだけ、あとは学生時代の思い出話に花が咲き、大変な賑わいであった。同窓会や同期会の良さということを心から味わった一日であった。 それから5年過ぎて91年、今度は関東地区同窓会支部総会の当番が私たちであった。東京での開催であり、同期生との再会はこれが二度目であった。関東地区にも数十人が住んでおり、企業や公務員、団体職員など様々な場で活躍している人、あるいは家庭人など、様々であった。夕方同窓会が終わり、その夜は都内に宿泊、翌日は有志で箱根への一泊旅行が予定されていた。人数は多分50名位であったと思う。この時のバスと箱根の宿泊は当時、私が勤務していた明治航空サービスで手配するようにと注文を受けていた。若手の社員が添乗し、私も同乗することになっていた。ところが出発時間になってもバスが現れず、バス会社や社の国内担当の責任者へも電話したが、肝心のバスと社員とは連絡が取れず、胃が痛む思いで待つしかなかった。多分30分くらい遅れたであろうか、何とも情けない思いで箱根へ向けて出発した。遅刻の原因は、社員の朝寝坊であった。まだ、携帯電話がなく、赤電話で確認するという時代であり、移動中の人物と連絡する手段は乏しかった。夕方の懇親会では開会のあいさつの後、担当旅行会社としてこの日の失態をお詫びするしかなかった。自分自身、2台の貸切バスによる国内旅行をうまくマネージできない無力さを否応なく味合わされた気分であった。 高校を卒業して30年以上過ぎると同期生同志、年に一度会うことが次第に定例化されるようになり、楽しみになっていった。中には早期引退する人もあったし、職場でも時間的に余裕のある人もあった。子どもたちも成人して時間的にゆとりのできた家庭人など、毎年の同期会では相変わらず高校時代の思い出話が繰り返されながら、大笑いする楽しいひとときであった。そんな中で、自分は社を自主閉鎖せざるを得ない苦痛を味わい、この会に出ることが少々憚られていた。かつての会社はすでになく、障害者福祉事業体での法人業務を担当し、合唱団のニューヨークでのコンサート開催準備に明け暮れる一方、自社の整理業務の日々が続いていた。そして、一方では、現業時代のお得意様から引き続き旅行業務のお取り扱いを命じてくださる方もあり、K社の嘱託としてこの仕事もお受けしていた。つまり、NPOのパートタイマー、合唱団の事務局、そして旅行業と三つの顔が2000年代当初の自分であった。 そんなある日、同期会の有松代表から同期生の還暦を記念して欧州旅行を考えているので提案してほしい、との話を得た。地獄で仏というのはこのようなことを言うのであろうか、大いに勇気づけられ、この計画を立案することに文字通り心血を注いだ。ニューヨークでのコンサートも成功裏に終え、NPO法人で引き続き法人業務や韓国での演奏会の準備などで少しずつ力を取り戻していたとはいえ、依然として社の処理業務に追われていたし、今少し、燃え上がりに欠ける日々であった。そんな中での同期生の還暦記念旅行の計画! 10年前の箱根旅行での苦い経験、何とか名誉挽回を目指さなければと仲間の友情に感謝しつつ知恵を絞った。そして、オーストリア~南ドイツ~スイスアルプスを周遊するコースを提案することにした。これまで視察や研修旅行の添乗でたびたび訪れていたこれらの国々でバスや鉄道での旅を楽しみ、歴史や文化、そして仲間同士の語らいにきっと楽しい時間を過ごしてもらえるに違いないと熟考した結果であった。 (資料 上から順に) 嘉穂高校の運動場の土手を上るとこの風景が広がっていた。(61年頃、飯塚市資料より) 在校当時の校舎(同窓会・会員名簿より) 3年4組 後列右から5番目が筆者。3年生は全部で9クラス、約500名であった。 (卒業アルバムより)  

(2016/3/8)

小 野  鎭