2016.04.26 小野 鎭
一期一会地球旅105「良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その8」

一期一会 地球旅 105

良き仲間たちとの思い出 高校の同期生の旅行 その8

(ハプスブルク家の栄華の跡を訪ねる旅 ②)

プラハに到着したのは午後5時過ぎであった。ホームに降り立った時はまだまだ日が高かったが、そよ風が心地よかった。チェコの首都プラハは、1000年の歴史を持つ中欧でも有数の大都市。100の塔のある町とも呼ばれ、ブルタヴァ川(モルダウ川)の両側に広がる美しい市街地にはゴシック様式などの古い塔がたくさん立って
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いる。夕食は、1499年に開業したというビヤレストラン「ウーフレク」自家製の黒ビールが名物、建物はかつて修道院であったそうで、酩酊状態の修道僧がデザインされたてジョッキが愉快であった。「サウナ列車」の長旅で疲れた一行にとって冷えたビールはきっと満足してもらえたと思う。疲れも取れてやがて酔った勢いで前回の旅行のミュンヘンでやったように校歌斉唱となるかも、と気にはなっていたが比較的静かな帰館であった。ブダペストからの長旅の後ではその元気は無かったのかもしれない。 プラハは、個人的には、40数年前に2度続けて訪れて
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いるが当時は、社会主義体制の厳しい時代であり、町自体も陰鬱とさえ表現したくなるような印象であった。そのころに比べると、市内は、驚くほど明るく色彩も豊かであった。ブルタヴァ川を見下ろすプラハ城も聖ビート大聖堂もカレル橋も、そして旧市街、どこも観光客が溢れていた。物価は観光客の足元を見たのであろうか(?)いい値段であった。食事も土産物も、名物のボヘミアン・グラスも、値段はすっかり「ヨーロッパ並み」であった。 プラハからチェスキ・クリムロフへの田園地帯のドライブは楽しかった。ヨーロッパは多くの国で景観保護が保たれており、野立て広告も無ければ、通り過ぎる集落の建物なども伝統的な建築方法と壁や屋根の色が規制されていることが多く、美しく整った風景が広がっている。このような集落は日本でいう重伝建(重要伝統的建築物群保存地区)と同じような性格が保たれているのであろうと思う。否、この分野ではむしろ欧州の方が先輩であろう。そんな美しい風景を車窓に眺めながら、和田・溝口両君の司会で自己紹介。数年前のタイ旅行やはるか昔の学生時代の思い出など、誰もが抱腹絶倒、楽しいバスの旅であった。途中、一休みしたのは、チェスキ・ブディジョビーチェという小さな町の川沿いの公園。チェコはビールで名高い国であるが、この小さな町でのビールづくりがアメリカに伝わり、世界的なブランド名となっていったバッドワイザーだとか。 オーストリアとの国境に近いところ、ブルタヴァ川が大きく蛇行した丘の上にチェスキ・クルムロフの町がある。13世紀にこの地方の豪族が城を築き、14世紀ごろから手工業などで繁栄してルネサンス様式の建物が続々と建てられて発展、神聖ローマ帝国からボヘミア王国、さらにオーストリア・ハンガリー二重帝国、そしてチェコスロヴァキアとこの町は支配者が変わっていった。町にはドイツ人が入って来てドイツの町のような雰囲気になっていったらしい。20世紀になって町は長い間放置されていたため近代化から取り残されて古い町のまま残されて荒んでいたとのこと。
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1989年のビロード革命以降、町は急速に修復され、さらに1992年に世界遺産として登録された。今では、ドイツやオーストリアはじめ世界中からの観光客でにぎわっている。夏の日の午後、私たち一行は三々五々この町でのひとときを楽しんだ。川下りで涼んだグループもあったし、城内を見学し、城の塔のてっぺんまでひたすら階段を上って汗びっしょりのメンバーもあった。大汗をかいたおかげで塔からはまさに絶景を堪能することができた。幸い、この町を代表するホテル・ルーゼ(バラの花)に宿泊したがこの建物の大部分は修道院の建物であったとか、内部はどこもそれを偲ばせる趣があった。窓からはブルタヴァ川の流れが見降ろされ、遠くに目をやるとさながら一幅の絵画を思わせる美しい風景が広がっていた。 翌日は、途中でドナウ川の船旅を楽しんでウィーンへ向かうことになっていた。オーストリアに入り、リンツから少し下ったところにメルクの町がある。同名の美しく大きな修道院がある。バロック様式を主とする建築でマリー・アントワネットがルイ16世の妃として嫁ぐためにパリへ向かう途次、宿泊していったところしても知られている。低地オーストリアのドナウ川流域一帯はブドウ畑や美しい森、古城や古い集落が点在する風景が続いている。自然と人間が作った美しい風景は、「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」として世界遺産となっている。このメルクからクレムスまでの35kmを遊覧船で下り、昼食も船上で楽しむことになっていた。 ところが、この日はチェスキ・クルミロフを発ち、出発時の忘れ物や、国境でのトイレ休憩とチェコの通貨からユーロへの換金、それから予想もしていなかった道路の渋滞に巻き込まれるなどでメルク発11時の船にはおよそ間に合いそうにない遅れが出ていた。理由はどうであれ、時間管理が甘かったことに違いなく、チェコ人のドライバーに何とか間に合わせてほしいと急かせたが制限速度以上は出せず、事故を起こされても困る。胃がきりきり痛む思いであったが、如何ともしがたかった。止む無く、一つ下流の船着場で乗船することにした。ドナウの岸辺を走って行くと、乗るはずであった遊覧船がゆっくり下っていた。
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次の船着場シュピッツに着いたのは11時20分頃であっただろうか、ここでの出発20分前であった。やがて、船が着いて乗船、そのまま船内の食堂へ直行、予定していた昼食であった。当初は2時間近くの乗船予定であったが、1時間10分のみの船旅となってしまい、それも昼食でほとんどがつぶれる結果となってしまった。せっかく、「美しく青きドナウ」を楽しんでいただく予定であったのに、何とも無様な案内となり、申し訳なさでいっぱいであった。わずかにデュリュンシュタインとクレムスなどの景勝地を眺めただけで旅情を楽しむ余裕はほとんどなかった。今も、ヴァッハウ渓谷のクルーズなどの旅番組を見るといつもあの時の苦い思い出が甦ってくる。 ウィーンは、今回は1泊のみ、そこで世界遺産「シェーンブルン宮殿」での宮廷コンサートと夕食を兼ねたオプショナルツアーを案内してあったが、結局全員参加であった。
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夕方、宮殿の大広間や主要な部屋を特別に案内してもらい、オランジェリー館の中庭で夕食、そして室内でのコンサートという趣向であった。食後のコンサートではモーツァルトやシュトラウスなどの名曲が演じられた。ところが、18世紀に造られた建物はクラッシックな造りで優雅の一言に尽きるが冷房設備は整っておらず室内は時間が経つにつれて暑さが籠ってきた。クラッシックな衣装に身を包んだ楽団員はもとより、聴衆も楽ではなかった。私たちもこの日は、全員ネクタイとスーツ、女性方もお洒落をして出かけたがまたもや難行苦行であった。絵画などに見るハプスブルク王朝の貴族たちは、いつも金モールをあしらった羅紗のコスチュームに巻き毛のかつら、貴婦人たちは、みんな鮮やかなドレスに身を包んでいる。宮殿の各室内の天井は高く、フレスコ画などが描かれ、広いホールは夏でもさわやかであるのかもしれないが、猛暑のときも本当にあれで過ごしたのであろうか? ウィーンの真夏の夜、流れる汗を拭きながらの宮廷コンサートであった。   (資料 上から順に いずれも2006年7月) プラハのビヤレストラン「ウーフレク」 酩酊した修道僧がエンブレムらしい。 プラハ城のテラスにて チェスキ・クルムロフ お城のテラスから観た絶景 ヴァッハウ渓谷 遊覧船にて シェーンブルン宮殿・アランジュリー館 庭園での夕食

(2016/4/26)

小 野  鎭