2024.02.26 小野 鎭
一期一会 地球旅 301 中南米での思い出 8
 一期一会・地球旅 301 
中南米での思い出 (8) 
ベルー ② 

 クスコの町は、海抜3400mの高地にあり、飛行機を降りて急ぎ足でターミナルビルへ歩いていくと、何やら息苦しさを覚えたことを思い出す。スイスのユングフラウヨッホ(3454m)でもそうであるがわずか1~2時間で、それも歩くのではなく乗り物で一気に平地からその高度の場所に到達すると酸素が薄いため、呼吸が苦しくなる。国内線であるので旅券の検査もなく、到着口へ出ていくと現地ガイドが待ってくれていた。インカ風のケープを羽織った青年で、開口一番「Slow down !」であった。ケチュア族の青年であるそうだが、英語でガイドしてくれた。 
 
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 今日では、現地人かあるいは日本人ガイドなどが日本語で案内してくれると思うし、各種案内ももちろん日本語で書いてあるが、今から半世紀以上前の1970年代は日本人観光客なども少なく案内は英語であった。こうなると、海外教育事情視察団では、通訳担当の英語の先生などが俄然張り切られ、得意満面。自分も出発前、古代インカの歴史や観光案内などをペルー大使館で仕入れて頭に入れていたのでにわか仕込みの知識を引っ張り出して案内した。カテドラルであるとか、サン・フランシスコ教会などは理解できたが、マドリッドやリマでよく聞いていた「プラサ・デ・アルマス」(Plaza de Armas = 戦士の広場)はすぐには理解できなかった。カミソリの刃も通さないほど、ぴったりつなぎ合わせたインカの石壁は、数百年以上も前に作られたそうである。これまでに地震や戦火を浴びてきたが、16世紀に入ってきたスペイン人はその土台の上に教会などを建て、それが今も使われていると現地ガイドはインカ人の石造りの技術の高さについて得意そうに説明していた。 
 
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 古代インカ帝国では、文字を持っておらず、情報伝達手段として「キープ」(縄のれんのような形の紐)を一定の約束に従って結び目を作り、数字などを表していたと言われている。つい先ごろのNHKのBS「地球ドラマチック」(2024年2月18日)で、キープはこれまでの数字を伝える情報手段だけでなく、もっと幅広く伝える手段として用いられていたのではないかと考古学者の新たな主張が紹介されていた。さらに興味深い新説となるかもしれない。 
 
 市内を少し回り、クスコの町の郊外には「サクサイワマン」の砦があり、巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に広がっていた。さらに高度が上がっており、一層息苦しさを覚えたことが思い出される。 
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 クスコのメルカド(マーケット)では、コカの葉っぱやジャガイモ、ピメンタ(胡椒)などの食料品から衣類やたくさんの日用品などが売られており、アルパカという看板が出ている土産物店、遺跡の片隅には、現地の人たちが土産物としてテーブルクロスやケープ、ケーナの笛、銀細工らしい飾り物などを並べて売っていた。テーブルクロスは何枚か買ってきたし、リャマやアルパカのケープはかなりの値段であったが、長男用にと、大枚をはたいて買ってきた。息子は、誇らしげに来ていたが、その彼も、今では55歳となり時の流れを感じる。 
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 市内見学を終えるころ、依然として頭の芯に何やら詰め物をされたような気分が続いていた。ホテルに到着するとロビーの片隅に酸素ボンベらしいものが置いてあり、よほど頭の痛い人はお申し出ください、とフロントから案内があった。チェックインを終え、部屋に入って夕方まで休憩。正直なところ、自分も外に出る気分にはなれそうもなかった。夕方、元気が出てきてロビーへ行ってみると、すでに何日か滞在している先客などの笑い声が響き、土産物を携えた観光客で賑わっていた。彼らもここに到着した日はだれもがヘロヘロ状態だったらしいが、一晩過ぎると高地に慣れて元気が出てくるのであろう。こればかりは経験してみないとわからない。 
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 ホテルで夕食を終えると現地ガイドが、近くでフォークロールの演奏があるので行きましょう、と誘ってきた。そこで、みんなで出かけた。昼間より頭もすっきりしてきたし、街灯が灯された古い小路を歩いていくとはるか昔を偲ばせる静けさがあり、深々と寒さが伝わってきた。小さなホールというより集会所といった感じの会場は素朴な造りであったが、入場料がいくらであったか記憶はないし記録もないのでさっぱりわからない。観光客らしい聴衆が三々五々集まってきた。ケーナと呼ばれる尺八のような笛やチャランゴと呼ばれるウクレレ状の楽器を携えた数名のバンドであった。70年代には、サイモンとガーファンクルが詩をつけて流行り始めていた「El condor pasa」は、ペルーで1913年に作られたそうである。ペルーのメロディと言えば、この曲が演奏される、そんな時代になっていたらしい。その後、ヨーロッパの街角などでペルーのミュージシャンが演奏しているのをよく見かけたが、クスコで初めて聴いた「コンドルは飛んでいく」はまさに旅情をかき立てる曲であった。その後もクスコには二度行ったがその都度、フォークロールを聴いた。この曲は、インカのメロディの定番らしい。 
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 ところで、これらの旅行の携行旅程を見ると、クスコではGarcilaso Hotel、もう一回は、San Agustin Hotel。もう一回は、記録が見つからず。前述2つのホテルは今も同名のホテルがあり、ともに2~3階建て。当時はエレベーターがなかったので重い荷物を持って階段を上るのはとても難儀した。町の様子を写真で見ると、半世紀前と見比べても観光客の多さと賑やかさを別にすれば、さほど変わっていないのかな? と思う次第。 (以下、次号) 


《写真、上から順に》 
・クスコのアルマス広場(Plaza de Armas)とイエズス会教会(Iglesia de la Compania de Jesús)  (1972年11月9日 筆者撮影) 

・クスコの市場(Mercado) (同上) 

・ペルー土産のケープを着た長男、お気に入りでした。(1974年、筆者撮影) 

・クスコのホテルの食堂で寛がれる皆様。(1972年11月9日、筆者撮影) 

・クスコの街角(Alpaca Factoryという看板あり:左側の建物)(同上) 

・現在のSan Agustin Hotelのロビーと食堂(San Agustin Hotel H/Pより)