2024.03.18 あ・える倶楽部
一期一会 地球旅 304 中南米での思い出 11
一期一会・地球旅 304 
中南米での思い出 (11) 
ブラジル ② リオ・デ・ジャネイロ(1) 
 
 
 リオ・デ・ジャネイロは視察というより、観光が主であった。最初の時(1972年)は、スペインのマドリッドからカナリア諸島のラス・パルマスを経て大西洋を南下、リオのガレオン国際空港に着いた。ここで入国手続後、国内線に乗り換えてサンパウロへ。数日間の学校見学等を終えて、長距離バスでリオまで走った。約500㎞位であったと思う。現地語のガイドは同乗しておらず、ドライバーはほとんどポルトガル語、多少スペイン語も話す男性であったと思う。自分は、どこへ行っても、その国でのあいさつと、ありがとう、すみません、○○をください、そして数字はその国の言葉で覚えることにしていたので、この時もポルトガル語はその程度。ほかにスペイン語はもう少し覚えていたので何とかそれらしい意思表示はできたと思う。英語はどこへ行っても極力話すように努めていたので海外へ行くたびに上達していったのではないだろうか。そんなわけで、陸上を移動することは、航空便より多くの風物を見ることができるバスツアーには苦労はあったが楽しみでもあった。 
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サンパウロは比較的高原にあり、リオに向かっていくにつれ少しずつ高度が下がっていく。緑濃い丘陵地にはコーヒー栽培の農園などが広がっていた。そして、疎林の中に人の背丈あるいはそれ以上に高い円錐形の土の塊らしいものが立っているのが見え隠れしていた。時々、それは林立しているといってもいいほど数が多いこともあった。そこで、ドライバーに「ケーエスエスト? あれは何?=西語」と聞いてみた。最初は何のことかわからなかったようだがそのうち、「Formigueiro」と教えてくれた。渉外(通訳担当)の先生にも手伝ってもらい、しばらくしてやっと「アリ塚」であろうということが分かった。その後、ブラジル高原には無数のアリ塚が立っていることを知り、「あれがそうだったんだ」、と納得したことを覚えている。航空機の移動ではこんな自然の様子を知ることはできなかったであろう。 
 
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 さて、1975年の食肉事情視察団の時、すでに自分は3度目であったのでリオの雰囲気は多少わかっているつもりであった。サンパウロの税関で苦労した後でのリオであり、しかも今度は国内線、通関も必要なく、何となく華やいだ気分であった。ここでの主目的は、「カーニバル見物」であった。通常、カーニバルは、謝肉祭のことを指
 し、仮装してパレード等が行われたりする。カトリックなど西方教会の文化圏で四旬節の前に見られる通俗的な祝祭とある。特に、フランスのニースであるとか、イタリアのベニス、ドイツのケルンなども聞いているが、なんといっても筆頭はリオであろう。この原稿を書いている2024年2月13日、今年もカーニバル・シーズンたけなわであることが報じられている。コロナが落ち着いてカーニバルも今まで以上に賑わっているとのこと。とは言いながら、一方ではデング熱が流行っているそうだが、地元では、心配しながら、それでも町中でサンバのリズムに浮かれていることであろう。 
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 毎年、2月上旬、リオの各地域で選抜された10いくつかのグループが市内の特設会場に登場して歌やダンスの美しさを競うコンテストで最高潮に達する。徳島の阿波踊りの数倍の規模であろうといえばわかりやすいかもしれない。1975年のこの時は、リオに4泊滞在。昼間は市内観光でコルコバードの丘まで上がったり、世界最大のマラカニャン競技場の大きさに驚いたり、買い物、コパカバーナやイパネマの海岸を散策したり、昼下がりはホテルのプールや午睡などで優雅なひと時。夕方はサンバのクラブに行ったりしての楽しみ。なんといってもハイライトはカーニバル見物、特設会場であの熱気に圧倒されたことは忘れられない。私は、フリータイムの一日を利用して、リオの対岸のニテロイまでフェリーで行き、市内を歩いてみた。町はどこへ行ってもカーニバル気分、街角では随所でサンバのリズムが響き、あちこちでボリュームたっぷりの衣装で練り歩いている風景が見られた。必ずしも、リオの特設会場ではなくてもいたるところで盛り上がっているということが分かった。帰りは、タクシーに乗り、この年よりも一年前に完成したと言われていたリオ・ニテロイ長大橋を通って帰ってきた。 
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 カーニバル見物の翌日であっただろうか、一夕、団員の皆さんがサンバのナイトクラブにおいでになるとおっしゃるので付いていった。カーニバルの熱気もさることながら、クラブで演じられるサンバの圧倒的なリズムと歓声、飛び散ってくる汗と脂粉の香りなどで場内はむんむ
 んしていた。テーブルでは、ビール(Cerveja=Cerveza)やソフトドリンクを摂ってひと時を過ごされた。とは言いながら場内の熱気で、のんびりひと時を楽しまれたという雰囲気ではなかったと思う。壮絶な賑わいの中で過ごしているうちに、請求された金額は目を疑うほどであった。俗にいう「ぼられた」のであり、みんなで呆気にとられ、ボーイを呼んで最初に見せられた料金表とは大違いであり、こんな金額は無茶であると声高に食いついた。英語であったか、知っているだけの西語(スペイン語)で食いついたかどうかは今となっては覚えていない。とにかく、納得いかず、怒鳴ったと思うが相手にしてもらえず、ボーイは、カーニバルの時は特別料金であり、この金額を払えと恐ろしいばかりの剣幕であった。しばらくぼやいてみたが聞き入れてもらえず、結局、不承不承言われるままにお客様にお支払いいただかざるを得なかった。クラブに入るときとは反対に何とも面白くないままにその夜はホテルに戻った。 
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そして、翌日、どうしても納得がいかず、そのサンバ・クラブに払い戻しをしてもらおうと出かけた。飲み代を返してもらいたいなど、どこにそれだけの勇気というかおよそ考えられない蛮勇であるが、旅の恥は掻き捨てとばかり、の気持ちがあったかもしれない。お客様に申し訳なかったという思いがあったのかもしれない。 
 
 この時、ご一緒願ったのが一行のうちのT様、以前に書いた40数年ぶりに電話でご挨拶したというお客様である。午後であったが件の店は既に開いていた。とは言いながら、店内は静かで、まだお客らしい姿は見当たらなかった。マネジャーを呼んでもらい、昨夜来たグループだが、どう考えてもこの計算はおかしい、と勘定書きを提示してクレームした。自分自身は日本でバーやクラブに入ったことは無いが、パリやロンドンでは夜の店にお客様のお供をして入った経験があるので雰囲気はそれなりに知っていたつもり。しかし、さっぱり要領を得ず、マネジャーはおよそ応ずる様子は見られなかった。自分は英語と、知っているだけのスペイン語で毒づき、警察を呼んでほしい、この計算はどう見てもおかしいので金を返せと声高に怒鳴り散らした。 
 
 実は、同行くださったT様は、明治大学の拳法部でマネジャーをやっていた人と聞いており、頭は短髪で、がっしりした体躯は小結並のたくましい風体、いわば用心棒格のように横に立っていてくださった。そして、とどのつまり、どのくらいの金額であったかは覚えていないが、ある程度の金額を返してもらうことに成功した。そして、あろうことか、今夜ももう一度、来店してくださいと招待券をくれた。もちろん、二度と近づくことはしなかったが、考えてみれば、サンパウロの税関と言い、リオのナイトクラブと言い、よくよく自分は図々しく毎回食いついたものだと、どこにそんな蛮勇心があったのだろうと今になって苦笑している。それにしても、用心棒格で横に立ってくださっていたT様のおかげと感謝の気持ちは今も忘れない。T様には、今年から書き始めた「地球旅・中南米編」を送っている。 
リオの武勇伝はこれでおしまい。 (以下、次号) 
 
《資料》 
・カーニバル : Wikipediaより 
《写真、上から順に》 
・サンパウロからリオへの貸し切りバス(1972年11月 筆者撮影) 
・リオのカーニバル(1)は最高潮!(1975年2月 筆者撮影) 
・コルコバードの丘の上、キリストの像 (同上) 
・ニテロイでみたカーニバルのパレード (同上) 
・リオのサンバ・クラブの例 (Night Life Guide of Rio de Janeiroより) 
・リオのカーニバル(2)は最高潮!(1975年2月 筆者撮影)