2024.04.30 小野 鎭
一期一会 地球旅 310 中南米での思い出 17
年一期一会・地球旅 310 
中南米での思い出 (17) 
パラグアイ・アスンシオンへ ① 
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 翌日、イグアスを発ってパラナ川にかかる友情の橋を渡り、パラグアイに入った。実は、前夜、ナイトツアーで一度この橋を渡り、カジノ・アカレイに行っているが、本格的な(?)パラグアイ入国はこれが最初(1974年4月8日)であった。橋の向こう側は、Ciudad del Esteという小さな町であったと思うが今回、資料を見ると人口22万余、パラグアイでは、首都アスンシオンに次いで人口では二番目に大きな都市とある。現地を訪れた当時、この橋より少し上流に大きな水力発電所が建設予定であることを聞いていたが、ブラジルとパラグアイ両国により、1975年に建設開始、91年に竣工したとあり、このイタイプ水力発電用ダムが完成当時は世界一の規模であったとのこと。ここで起電される電力はパラグアイ全土を賄っており、さらに余った電力はブラジルに売電している。最近、中国の三峡ダムが完成したことで、現在ではイタイプは世界第二位になっているという。また、このダムによって上流にできた人造湖は、面積が1350㎢あり、これは日本の琵琶湖のほぼ二倍の大きさになる。 
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 両国間の道路交通量が増大しており、友情の橋の少し上流にさらに大きな橋が建設されており、目下周辺道路の整備中と報じられている。イグアスやイタプア一帯の観光客増などもあり、パラグアイ東部の産業経済の中心地として発展しているのであろう。 
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 先に書いたように、1974年と翌年の二度、イグアスからパラグアイのアスンシオンに陸路移動しているが、いずれも両地を結ぶ国道7号線の沿線一帯にあるCAYSA(Compañia Agropecuria Yguazú S.A.) =イグアス農牧業会社=通称イグアス移住地にある農場や牧場、養蜂業者などの事業所を見学し、JICA(現独立行政法人国際協力機構)の現地事務所を訪ねることなどが主たる目的であった。 
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 パラグアイへの日本人の移住は1936年、アスンシオンの南東130kmのラ・コルメナ移住地への入植に始まった。第二次大戦で一時中断されたが、戦後復活、1950年代後半からラ・コルメナ地区やJICA直営のイグアス移住地などが建設され、この国への移住が本格化した。入植当時の移住者は原生林を斧で倒して焼き、仮小屋に住まい、広大な赤土の大地を開拓した。入植者たちのこうした並々ならぬ情熱と苦労の上に、現在、パラグアイにおける日系社会は全体的に豊かな生活を行っている。移住者は様々な分野で活躍しているがその多くは農業に従事してきた。野菜栽培が多く、元来、肉ばかりで野菜を食べる習慣がなかったこの国の人たちの食卓に多くの野菜・果物を供給したり、また、現在パラグアイの重要な輸出農産物の一つとなっている大豆を導入するなど、多くの努力を重ねてこの国の農業を発展させてきた。このことは、パラグアイの誰もが認めるところであり、パラグアイ経済・社会に大きく貢献してきた日本人移住者を通じ、日本に対するパラグアイ国民の信頼と評価も極めて高いものとなっている。(パラグアイにおける日系社会について:JICA資料より) 
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 上記のようにイグアス移住地は、JICA主導により1961年建設開始、63年この地への日本から第1陣入植があり、私たちが訪れたのはそれから11~12年過ぎたころである。前述したように入植された人たちは、原生林を切り開き、仮小屋に住まい、広大な赤土の大地を開拓して、牧場や農場で肉牛やトウモロコシ、大豆や野菜、蜂蜜などが生産され始めていたころであろう。JICAの事務所でそのような説明を聞き、開拓してこられた移住者の方々からその生活の様子などを聞かせていただいたと思う。うかがった話などはほとんど覚えていないが、どこまでも青い大きな空と赤土の大地、疎林の中の牧場で草をはむ牛たちなどの姿は今も覚えている。近年、パラグアイは牛肉の生産及び輸出ともに増えている国の一つであり、疎林の中に広がっていた牧場であるがそれが次第に本格的な肉牛生産に成長して肥育、フィードロットなどが増加して、今日の増産につながっているのであろう。 
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 結果的に二度ともJICA事務所で昼食をいただき、実費をお支払いしたと思うが正確な記憶はない。一つ覚えているのは、75年のときの出来事。団員のお一人に女性がおられたが、トイレを使用された折、頭上に設置されていたタンクから下がっていた紐を引っ張ったところ器具の一部が壊れて落下、頭から水をかぶられるという事故が発生、騒動となった。幸い、お怪我はなかったが上半身に水をかぶられてしまい大変お気の毒な出来事であった。一つ間違えば大事故になるところであった。設備の取り付けが不十分であったのか、経年劣化して紐の取り付け部分が傷んでいたのか、今、振り返ってみると大事故にならずに済んだことが救いであったと思うのみ。
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 この時訪れたJICAの現地事務所がどのあたりにあったのかは覚えていないが、昼食後アスンシオンへ向かってバスは出発。あいにくクーラーは取り付けられておらず、開け放した窓からはさわやかとはいうよりも熱風が入ってきた。国道は舗装されているところが多かったが傷んでいるところも多く、時にほこりが入ってくるのでシャツの襟足を流れる汗をぬぐうとタオルが茶色に染まっていた。過酷なバス旅行ではあったが、団員諸氏は、少しずつそれに慣れてくださり、シートに身を預けて熟睡している方がほとんどであった。しばらくして南北に走る国道8号線と交差するCoronel Oviedoという集落付近にあるサービスエリアで一休み。ドライブインで飲んださわやかなジュースJugo Naranja(フーゴ・ナランハ=オレンジジュース)がのどを潤してくれ、蘇生する思いであった。アスンシオンのホテルに着いてバスのトランクから旅行鞄を出してもらったところ、いずれも赤茶けたホコリに覆われていた。部屋に入ってシャワーを浴びるとほうじ茶のような水が流れていった。(以下、次号) 
 
《資料》 
・イタイプダム&発電所 : 日本ダム協会、アルファ・インテル社資料より 
・Integration Bridge connecting Paraguay with Brazil : Merco Press 
・イグアス移住地(CAYSA) : 独立行政法人 国際協力機構 
・パラグアイの農業&養蜂概況 : 農業および園芸 第87巻 第10号 
《写真》 
・友情の橋 (Puente Internacional Amistad  : 1974年4月9日 筆者撮影) 
・イタイプダム : Wikipediaより 
・Bridge under construction : Merco Press 
・パラグアイの国道7号線 (1974年4月9日 筆者撮影) 
・国道7号線 当時は未舗装部分も多かった。(同上) 
・イグアス移住地内 赤土の大地はどこまでも続いていた。(同上) 
・国道7号線イグアス移住地内(JICA事務所も近くにあったと思うが、不確実)(同上) 
・Coronel Oviedo近くの休憩地、アスンシオン東方150㎞付近 (同上)