2025.01.14 あ・える倶楽部
一期一会 地球旅 344 ニュージーランドの思い出(12)オークランド5
一期一会・地球旅 344 
ニュージーランドの思い出(12)オークランド5
 
 ニュージーランドでのコンサート開催へ向けての事前調査では大きな成果が挙げられて、いよいよ本格的な準備が開始された。先ず、ゆきわりそうの年末恒例のMusic Partyで「南十字星に贈る歓喜の歌」と命名されたコンサート計画が発表され、本格的に参加者募集も開始された。1995年の年明けから始まった練習は一層熱が入っていた。 
 
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 ところが、それから数日後、予想もしない大きな悲劇が日本中を襲った。この年1月17日午前5時46分に起きた阪神・淡路大震災である。ゆきわりそうグループと合唱団のメンバーや関係者はほとんどが東京または関東在住であり、直接に被災するとか、被害を受けた人はいなかったが、親類や友人・知人などの中にはそのような人もあったかも知れない。あれから今年で奇しくも30年が過ぎる。この震災では、6,400人以上の人命が失われ(災害関連死者を含む)、家屋の焼失や倒壊、さらに経済そのものの被害は甚大であった。たくさんの人がボランティア活動に従事し、日本中で鎮魂の祈りが捧げられた。海外旅行を取りやめるとか、多くの慶事の自粛傾向が日本中に広がっていた。もしかすると、ニュージーランドでのコンサート自体が取りやめになるかもしれないという危惧の念が私の心の中に起きていた。結論から言えば、このイベントは予定通り実施されたがそれに至るまでにはいくつかの紆余曲折があった。実は、この2年前、初めての海外演奏会であったドイツのボンへの旅行に参加を予定していたN青年が出発の2週間くらい前に急死された。団員は誰もが彼の死を悼み、心を痛めながらそれでも予定通り旅行に出発、ライン川の船上で改めて彼の冥福を祈った。ニュージーランドの時は、旅行まで1年近くあり、多くのメンバーがコンサートへの期待を高めていた。みんなの願いを無にするわけにはいかないということで姥山代表始め、実行委員の総意で計画は予定通り進められていった。障がい者の福祉向上と国際交流促進という観点からボンに引き続き、財団法人東京都国際平和交流基金への助成申請も行われた。 
 
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 今回も、肢体不自由など20名近い車いす使用者があり、ほかに知的障害のある人なども20数名が参加、さらにその家族や関係者、スタッフなど総勢110余名の参加予定があった。プール教室メンバーの中にはコンサートの後、南島のカイコウラでイルカと泳ぐというプランへの参加者もあった。ボンへの出発直前にご子息を亡くされたN様ご夫妻もN君の遺影を抱いて参加されるとのことだった。大手の企業を早期に引退されて北海道でバリアフリーのホテルを造りたいというM様ご夫妻は、障がいのある人との旅行から多くを学びたいと希望して参加された。ボンへは参加できなかったが、今度は参加したいという新しいメンバーもあった。こうして「南十字星へ贈る歓喜の歌」への期待は次第に大きくなっていった。 
 
 1990年、米国で、障害を持つアメリカ人法(通称ADA法)が制定され、日本では1993年、ハートビル法の制定などもあった。1970年代中ごろ、建築分野で生まれたバリアフリーという考え方が1990年代には日本の社会と一般の生活の中にも少しずつ使われ始めていた。それまで言われていた「障害者旅行」も次第にバリアフリー旅行という考え方が意識され、車いすを使っている方の旅行などが次第に増えてきていた。そして、それを取り扱う旅行会社なども増えてきていた。 
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 様々な準備が進められながら、一方では阪神・淡路大震災で被災された人々への支援と激励が日本各地で行われて神戸など被災地へ送られていた。「私たちは心で歌う目で歌う合唱団」でも、チャリティコンサートを行うことが計画され、この年、8月27日に東京文化会館で「ひびけ生命の応援歌、第9コンサート」が行われ、オーケストラはじめニュージーランドコンサート参加予定者はもとより、多くの人々が舞台に立った。聴衆はもとより、参加者自身も参加費のほかに寄付をするなど多くの善意が寄せられた。そして、この善意は障がいのある団員などが主となって被災地を訪れ、障害者団体などへこれが届けられた。 
 
 日本での準備が進められて行く一方でニュージーランドからも受け入れ態勢など様々な情報が届いていた。プログラムは日本側の和太鼓演奏に始まり、エルガーの「エグモント序曲」、外山雄三の「管弦楽のためのラプソディ」と続き、ベートーベンの「第九交響曲」の第4楽章演奏『歓喜の歌』でフィナーレとすることになった。オークランド交響楽団、オークランド混声合唱団には現地在住の日本人グループも参加することになっていた。ソプラノ、アルト、テノール、バリトンのソリストにはニュージーランドやオーストラリア、英国などで活躍しているソリスト4人が決まっていた。世界的に知られたソプラノのソリスト、キリ・テ・カナウを生んだこの国である。大いに期待が寄せられた。オーケストラの指揮者は事前調査で打ち合わせたG・ディヴァーン、さらに、ケネス・コルニッシュが合唱の専任指揮者として立つことになったということを知った。今回のように、オーケストラが舞台に立ち、その前方と客席に合唱団が配置されて、大合唱をすることでこれをリードする専任の指揮者が配置されることになったとのこと。私たちは初めての経験であり、よくわからないところもあったが、私たちの指導者である新田光信氏が、大きな合唱団がオーケストラと合同で演奏されるときは、そういうやり方もあるという説明を聞いて、なるほど、と納得した。あとは、お互いにしっかりやろうと、意気込みが交わされた。 
 
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 TE(ニュージーランド航空)との折衝は過去の経験を活かしながら、細かく準備が進められていき、20数名の車いす利用者などの搭乗についても様々な便宜を図ってもらった。オークランドまで10時間余りの飛行中、安全、そして快適であるようにとメンバー全員で協力することを約束した。現地の会場であるアオテア・センターのステージ、終了後の打ち上げなどについては、オペレーターを通じて準備が進められ、ホテル側には車いす利用者のための便宜をできるだけ多く図って欲しいと、今でいうバリアフリーの観点から様々な注文や要望を申し入れた。肝心のコンサートの案内など広告宣伝は、後援いただくオークランド市と日本領事館などにお任せであった。最初のボンのときもそうであったが、気の遠くなるような諸準備と新たな条件に加えて様々な対応が必要であったが多くの人たちの協力や助言、関わる人それぞれの熱意が伝わって準備は要領よく進められていった。こうして、この年、12月7日、参加者110名と私たち添乗員4名を加えて一行は成田からオークランドへ向けて飛び立った。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・阪神・淡路大震災のニュース : 1995年1月17日 NHK News Webより 
・ライン川の船上での鎮魂 : 1993年5月 : ボンに響け歓喜の歌 地域福祉研究会 ゆきわりそう 記念誌より 
・ひびけ生命の応援歌 第9コンサート : 1995年8月27日 東京文化会館アーカイヴ資料より 
・南十字星に贈る歓喜の歌 携行旅程 1995年12月7日~12月16日