2023.06.12
小野 鎭
一期一会 地球旅 265 カナダの大自然と遊ぼう9
一期一会・地球旅 265
カナダの大自然と遊ぼう ⑨ カルガリー ②
アルバータ州、特にカルガリーと周辺にはいくつかの思い出がある。初めて訪れたのは1976年6月であった。食肉関係視察団のお伴で、問屋、食肉加工、食肉店などの役員やオーナーなど14名。30~50代の威勢のいい方々であった。それまでにカナダは東のモントリオールやトロント、ナイアガラ瀑布などはすでに幾度か訪れていたが西部地域は初めてであった。この時は、羽田からバンクーバーへ飛び、国内線でトロント経由モントリオール迄、とにかく遠かったことを思い出す。食肉関係団体やパッカー(食肉加工業)、スーパーなどの視察訪問で忙しかった。そこから西へ飛び、アルバータ州の州都エドモントンへ。州政府の畜産関係部局表敬訪問と食肉店の見学を終え、夕方空路カルガリーへ。小型機で30分余りの飛行であった。何とも慌ただしい日程であるが高度経済成長期の日本では、様々な業界団体や国・地方行政や公共団体が主となって派遣する海外視察や研修が多く、世界中で関連分野などの視察をしては、「海外から良いとこ取り」に力が入れられていた。日本に持ち帰っては、「日本を発展させる」うえで役立っていたと思う。
日本では、1964年4月1日に海外旅行が自由化された。自分も同じ日に旅行会社に入社、航空運賃の計算や航空券の発券業務に携わっていたが、4年後、明治航空サービスに移った。社長以下10名足らずの小さな会社であったが、視察旅行の取り扱いを得意としており、特に農業や医療関係の視察旅行が多く、自分も農協や病院関係の視察団の添乗で出かけることが多かった。そのうち、医療関係はもとより、学生時代の経験から福祉関係の研修などいわゆる厚生関係の海外業務を幅広くお取り扱いするようになっていった。1970~1990年頃は、年に140~170日くらい出るようになり、特に当時いわゆる先進国ということで欧米豪などへ出かけることが多かった。視察のお伴だけでなく、英語での通訳もやることになり、視察先の発掘や先方とのコンタクトなども自らやっていたので、一層関連分野について個人的にも興味を覚えるになり、それなりに勉強もした。
カルガリーでは、フィードロットとパッカーを見学した。中心街を出るとすぐにプレイリー、その名の通り、大平原と呼ぶにふさわしい緑野と牧場などが広がり、目の届く限り道路がまっすぐ伸びていた。ドライバーに言わせるとここから西へ走ると1時間半でカナディアンロッキーにぶつかるが、東へ走ると何千キロも平原が広がっており、森や湖はあるが山は無い!と言っていたのを今でも覚えている。今から50年近く前のことであり、中心街には数本の高層ビルが立ち並び、オフィス街はまばらで商店街らしきものはおよそ目につかなかったがそれは、たまたま通ったのがそんな地域であったとは思うがまだ人口も少なく、いかにも西部の町といったような印象であったような気がする。
フィードロット(Feedlot)とは、生後数か月の仔牛(肉牛)をここに運び込み、濃厚飼料を与え、省力的に集団肥育する施設で、運動場の何倍かの広さの牧場に数えきれないほどの牛が文字通り犇めいていた。仔牛は、このフィードロットで90日から200日くらい肥育され、体重が大きく増えるだけでなく柔らかい霜降り部分が増えるとのこと。ここで肥育された牛は食肉加工場全般にわたって使われている専門用語に四苦八苦したことも懐かしい。アルファルファ(栄養価値の高い牧草)はすでに農協関係の視察団でも聞いていた言葉であるが、ペレット(配合飼料のかたち)であるとか、スローターハウス(肉牛の屠殺)、カーカス(枝肉)などと言った言葉が幾度も出てきて胸をバクバクさせながら通訳したことが懐かしい。その後、通称パッカーと呼ばれている食肉加工場を見学した。牛が送られてきて、食肉として包装されていくまでの流れを見たが、その日の夕食は流石に肉料理を食べる勇気が出なかった。
アルバータ・ビーフはカナディアン・ビーフの中でも特に多く日本に輸入されていたのでこのとき訪れた行政府や食肉関係団体はいずれも熱い歓迎をしてくれていたが、一方で日本の農協関係団体ではアメリカやカナダの牛肉についてはきわめて厳しい見方がされていた。(以下、次号)
(写真と資料、上から順に)
カナダ食肉事情視察団 多くの旅行団が出発に際して、記念写真を撮ることが多かった。 1976年6月 明治航空サービス株式会社資料より
初めてのヨーロッパへの添乗、パリにて、 1967年11月 小野資料より
車窓には、どこまでもプレーリー(大平原)が広がっている。 2009年8月28日 筆者撮影
フィードロットの例 アルバータ州畜産協会資料より