2024.02.19 小野 鎭
一期一会 地球旅 300 中南米での思い出 7
一期一会・地球旅 300 
中南米での思い出 (7) 
ベルー ① 
 
 偶然といえばそうだが、1972年から75年にかけて、南米には3回行き、その中でも毎回訪れたのがブラジルのリオ・デ・ジャネイロとサンパウロ、そしてペルーは首都リマとクスコ&マチュ・ピチュであった。もちろん、旅行全体としてはいずれも視察旅行であり、公的プログラムとしては、サンパウロに続いて2回訪れたアルゼンチンのブエノスアイレス、そして、ほかにパラグアイのアスンシオンがあった。ペルーは、旅行を企画された法人団体等から見れば、リマというよりも、クスコとマチュ・ピチュにウェイトが置かれていたように思われる。結果的に、ペルーは3回とも観光目的であったが、教育事情視察団の先生方にとっては、いずこの町や村であっても、各国の文化や歴史、社会事情を知るうえで大切であったと思われる。 
 
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 ペルーはブラジルやアルゼンチンに次いで日本人あるいは日系移民なども多く、日本とのつながりが強く、関心が高かったと言えよう。ペルーは、我が国が南米で最初に外交関係を結んだ国であり、昨夏、日本ペルー外交関係設立150周年の式典も開かれている。1990年代になると日系のフジモリ大統領が登場するなど、日本との関係がさらに密になっているが、我々が訪れた1970年代は、まだ素朴さが感じられるリマであり、クスコであった。リマは、ペルーの首都であり、スペインから来たフランシスコ・ピサロが自らの手で築いた町であった。大聖堂や大統領府など壮麗な建物もあり、ピサロは大聖堂の一画にミイラとして眠っていると説明を受けたことは覚えている。ペルーの人々にとってピサロはどのように意識されているのだろうか。 
 
 大航海時代と言われた15~16世紀、ピサロは2度にわたって南米を探検し、1528年にスペインの国王カルロス1世(後の神聖ローマ帝国皇帝カール五世)からペルー支配の許可を得て、征服の権利や搾取の特権、貴族の位も得て、ヌエバ・カステーリャの総督に任命された。1531年、パナマからペルー方面への侵入を開始、インカ帝国のアタウワルパを追って南進、アタウワルパと会見し、その場で生け捕り、身代金として莫大な貴金属などを受けとった。しかし、彼のある限り反乱を起こさせる可能性があるとして、1533年、彼を処刑した。その後もインカ帝国の都であるクスコに無血入城した。そして、パナマなどのスペイン人居留地として接触しやすい沿岸地域に拠点を置くべきと町を作らせた。そして、Ciudad de Reies「諸王の町」として現在のリマの町を建設した。その後も、ピサロは圧制を広げていったため、1536年にカルロス1世によってアタウアルパを無実の罪で処刑したとして死刑宣告を受けた。政敵であったアルマグロの遺児によりリマで暗殺された。 
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 母国スペインでピサロは英雄扱いされており、1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた最後の1000ペセタ紙幣の裏面に彼の肖像が使用されていた。 一方、西暦1935年にリマ建都400年を祝ってピサロの故郷スペインのエストレマドゥーラからリマ市に騎馬像が贈られ、最初は大聖堂の前に置かれた。しかし、その後、リマ市長からは国民感情からそぐわないとして、リマ市内の旧市街リマック川の城塞広場に台座のない状態で置かれて今に至っているらしい。 
 
 「リマの歴史地区」は、アルマス広場を中心にして碁盤目状に道路が配され、壮麗な建物などが並んでいる。リマは、ピサロによって建設が開始された7年後の1542年にペルー副王領の首都となると南米諸国が独立するまで、スペインの南米植民地支配の中心としていくつもの重要な建築物がつくられた。アルマス広場にある大聖堂は、1535年の起工時にピサロ自ら礎石を置いたとされる。ほかにもサン・フランシスコ修道院、サント・ドミンゴ教会堂などが現存し、1988年にユネスコの「世界文化遺産」として指定されている。NHKの世界遺産シリーズでは、「旧市街の中心に聳える大聖堂に、ピサロの棺が安置されている。野心に燃えて海を渡り、インカを滅ぼし、ついには仲間割れから暗殺された征服者。棺を開けると、そこには刀傷の残る骨が収められていた。」と紹介されている。 
 
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 1972年の時は、Lima Sheratonに泊まっているが、3年後の食肉事情視察団では、 Crillon Hotelに泊まっている。クリヨンは、リマの歴史地区にあり、シックな造りで1947年から1999年まで市内で最も象徴的なホテルとして知られていた。往時は、外国の有名俳優やミュージシャンなどにも喜ばれていたという。シャルル・アズナブール、ナット・キング・コール、ジョン・ウェイン、デビー・レイノルズ、モハメッド・アリ、ペレなども宿泊したとか。超一流の有名人の名前を聞くと、多忙な日々の生活の中で映画やミュージカルなどを追いかけていた当時を思い出す。1980年代になるとリマ市では、歴史地区など中心部が衰退していき、有名ホテルなどは次第にサン・イシードロ地区や海岸部に移っていき、クリヨンホテルも1999年に幕を閉じ、現在はオフィスビルとして使われているという。(以下、次号) 
 
【資料と写真、上から順に】 
《資料》 
・リマの歴史 : 外務省資料、日本ペルー協会、Wikipedia 
・フランシスコ・ピサロ : Wikipedia、世界遺産アカデミー 世界遺産大辞典 下巻 
・リマの歴史地区 : 世界遺産アカデミー 世界遺産大辞典 下巻 
《写真》 
・サン・マルティン広場 (Plaza de San Martin : 1972年11月 筆者撮影) 
・スペイン・1,000ペセタ札 : Wikipedia 
・アルマス広場(Plaza de Armas = Plaza de Mayor)、正面はリマ市庁舎(Palacio Municipal de Lima Metropolitano  : 1972年11月 筆者撮影) 
・フランシスコ・ピサロの墓 NHK 世界遺産シリーズより 
・Hotel Crillon, Lima (Edificio Crillon)   : Wikipedia