2024.03.04 小野 鎭
一期一会 地球旅 302 中南米での思い出 9
 
一期一会・地球旅 302 
中南米での思い出 (9) 
ベルー ③ 
 
 翌日は、定番のマチュピチュ観光であった。クスコからの日帰り鉄道の旅であって、ホテルから駅までは歩いたと思うが早朝であるのでさらに冷気が厳しく、だれもがコート姿であった。前日、到着した時の体調からはすっかり回復し、皆さん元気を取り戻されていた様子。クスコからマチュピチュまでは片道3時間半から4時間近くかかったと思うが、最近では、マチュピチュ近くにホテルができていて稀少動物を見たり、温泉につかってのんびり過ごし、古代遺跡をめぐるなどのゆったり旅行も紹介されているが多くは依然として日帰り観光が多いらしい。マチュピチュの遺跡に近い終点の駅からは急峻な九十九折りの山道を小型バスなどで上っていくのが一般的であろう。最近は、クスコより手前のオリャンタイタンボという古代インカ遺跡あたりから文字通りのインカ道をトレッキングしてマチュピチュの遺跡に到達するという冒険旅行も紹介されている。この地がペルーでも代表的な観光地の一つとして大きくクローズアップされて旅行のパターンも幅広くなってきていることがうかがえるが、半世紀前、南米全体数か国を廻る視察旅行では、日本人にとっては、今日のようなバラエティに富んだ観光コースはまだ少なかったのではないだろうか。 
 

 クスコからマチュピチュまでの鉄道の所要時間は昔も今もあまり変わらないらしいが、現在はPeru Railという私鉄が一日数本走っており、並のクラスからハイラム・ビンガムと名付けられた超豪華な列車旅行も紹介されている。特に、このHiram Bingham Luxury Trainは、オリエント急行などを運営している英国のBelmond 社とペルーの起業家による合弁会社による運営とのこと。食事だけでなく、様々なアトラクションが組み込まれるなど、単なる移動手段ではなく、列車の旅そのものが大きな楽しみということであろう。いずれにしても鉄道そのものは、クスコから次第に高度は下がっていき、沿線は赤茶けた荒涼たる台地が広がり、途中から緑濃い農村風景も続いている。ところどころに古代インカ時代の遺跡らしいものが見られることもある。やがてそれまで流れていた川は川幅が次第に狭まり、両側の急斜面に繁る樹林が谷あいをうめ谷底の激流が大きな石を嚙んでいる風景も増えてきたと記憶している。ウルバンバ川というこの流れは、太平洋に流れていくのではなく、ここから東へ流れて南米最大の大河アマゾンの支流の一つとなっている。ここからアマゾンの河口まで何千キロあるのだろう?谷の両側には鬱蒼たる樹林が斜面を覆っており、頂上は仰ぐこともできない。この谷あいはるか上の方に古代遺跡があるとは、だれが考えたであろうか。 
 
 ウルバンバ川を見下ろす海抜2400mの尾根伝いに古代遺跡があった。マチュピチュ(ケチュア語で『老いた峰』)はインカの都市遺跡で、ワイナピチュ(若い峰)との間の尾根部分に都市集落が誕生したのは15世紀半ばとされている。1533年、最後の皇帝アタウワルパがスペイン人に処刑されてインカ帝国が実質的に終焉を迎えるのと相前後してマチュピチュの集落も放棄された。当時、南米を征服したスペイン人の間には滅ぼされたインカ帝国の皇族の一族や残党たちがスペイン人に反逆するため、山中に「ビルカバンバ」という都市を築き、そこに莫大な金銀財宝を集めているという噂があったが発見できなかった。1911年、アメリカの考古学者ハイラム・ビンガムはインカ帝国の首都であったクスコの調査中に先住住民の手引きによりマチュピチュを発見し、彼はこの遺構こそ、あのビルカバンバだと世に紹介した。 
 
 マチュピチュの都市部分は、急峻な山の尾根部分から中腹にかけて築かれトウモロコシやジャガイモなど植えた畑も開墾され、灌漑設備も充実していた。車輪や轍(わだち)を持っていなかったインカの民が巨大な花崗岩を山の上まで持ち上げ、宮殿や神殿を建築しており、これらの建築物からもインカの民の文明度の高さをうかがい知ることができる。マチュピチュは、1983年にユネスコの世界複合遺産として登録されている。 
 
 1972年から75年にかけて前後3回ほど、筆者はこの地を訪れているが、そこで見たものは毎回ほとんど変わらず、毎回、遺跡入り口付近に、ケチュアの人たちが子連れであるとか、少年少女たちが店番をしながら、色鮮やかなテーブルクロスやマットらしいもの、インカの皇帝をデザインした置物やアクセサリー、アルパカやリャマの毛と思しきケープや肩掛け、ケーナの笛などを並べて売っていた。客寄せのためにケーナを拭いている少年もいた。メロデイはここでも「El condor pasa」であった。 
 
1983年に世界遺産として登録され、それから40年、今日ではペルーを代表する観光地の一つとして紹介されており、連日押すな押すなの賑わいと聞く。この遺跡に行くときは、入場確約の目途をつけておくことが肝要である。遺跡の経年劣化もさることながら、観光客による文化財の破損や汚損、盗掘防止など厳重な維持管理策など今日的な課題も大きいだろう。自分たちが訪れた遥かな昔、案内も不十分であったし、自らの事前学習も不十分であったが古き良き時代、インカ帝国の昔を偲びながらアンデネスと呼ばれる段々畑を眺めたことが思い出される。 
 
 最後に、自分たちがこの地を訪れたとき乗った鉄道の車両には、「川崎車両」あるいは「近畿車両」と小さな札が打ち付けてあったことを覚えている。この区間の軌道幅は、914mmとあるので、日本で役割を終えた車両が送り出されて使われているのではなく、特注であったのか? 1970年代すでに日本の鉄道車両がはるか南米のペルーまで輸出されていたのであろうか、いまも思い出される当時の記憶である。(以下、次号) 
 

【資料】 
・世界複合遺産 マチュピチュ : 世界遺産大辞典 下巻 (世界遺産アカデミー発行) 
【写真、上から順に】 
・クスコ郊外の車窓風景、荒れ地が広がっていた。(1974年4月14日 筆者撮影) 
・ウルバンバ川の激流 (1972年11月10日 筆者撮影) 
・マチュピチュから見下ろすウルバンバ峡谷(1974年4月14日筆者撮影) 
・マチュピチュ、向かい側がワイナピチュ(若い峰)(1974年4月14日筆者撮影) 
・機を織るケチュア族の母娘(1974年4月14日 筆者撮影) 
・マチュピチュの集落を見下ろす高台にて(1974年4月14日 撮影) 
・マチュピチュへの鉄道車両(同上)