2024.03.11 小野 鎭
一期一会 地球旅 303 中南米での思い出 10
 一期一会・地球旅 303 
中南米での思い出 (10) 
ブラジル ① サンパウロ 
 
 ブラジルにも3回行っている。1970年代前半であり、欧米に比べると回数も少なく、はるかに古い話ばかりで恐縮であるが、それだけに強烈な経験は忘れられぬ思い出として、今も覚えている。サンパウロとリオ・デ・ジャネイロそしてイグアス・フォールスであり、ブラジル旅行の定番の一つと言ってもいいかもしれない。いずれもサンパウロが主たる視察、リオは観光、それも一度はリオが大きな目的であった。それは、追って書くとしてまずはサンパウロ。 

 1975年2月4日、ブエノスアイレスでの食肉事情視察を終えて、それも午後までのプログラムがあったのでサンパウロに着いたのは21時過ぎであった。当時、南米最大の都市であるこの町には二つの空港(*)があり、ほぼ市内といっても良いコンゴニャス空港は滑走路が2,000m以下であったため、遠距離国際線と言おうか、大型機であるB-707、DC-8、CV-880などの航空便は市から北西のカンピナス市郊外に1960年代に急造されたヴィラコポス空港が使われていた。サンパウロ都心からは90km位あり、空港到着後、その日、宿泊予定のホテルまでは2時間くらいはかかるであろうと覚悟してお客様にもご案内しておいた。 
(*)1985年に、もう一つ、グアルリョース国際空港ができて現在は三つの空港がある。 
 
 ところが、この空港の税関で予期せぬトラブルが起きた。お客様は、ブエノスアイレスで毛皮のコートやバッグなどをお土産として購入された方が多かった。私たちのグループは、この後、リオ、イグアスを経てパラグアイから米国を経て日本へ帰るのでお土産品を含めた持ち物は、Personal effects(身の回り品)として税関検査を受けることにしていた。事実、ヨーロッパやカナダからアメリカへ入り、そこから帰国する場合も同様の通関手続きを受けていたのでそれで問題はないであろうと考えていた。各自、スーツケースなど旅行鞄をもって検査台へ進んで係官の検査を待っていた。係官は、ヌートリアなどのコートやバッグなどを開いて細かく見る一方、領収証を提示するよう指示した。いずれも南米特産の高級品と言われていた品物であった。ブラジルには親類や知り合いがいるのではないかなどの質問もあった。どうやらこれらの品物はブラジルへの土産として置いていくのではないかという疑問を持たれたらしい。私は、お客様を代理して説明した。アルゼンチンで購入したが、ブラジルの後、パラグアイから米国を経由して日本に帰国すること、これらの品物はすべて日本へ持ち帰る土産物であり、ブラジルで使うとか、この国に置いていくものではないことを強調した。しかしながら、まるで理解してもらえず、他のお客様も同様であった。もし、サンパウロから出国するのであればこれらの品物はすべてボンド(保税扱いで税関に預けること)することもできるが、この後はリオやイグアスを経てパラグアイに行くので、それはできないことも申し出たが、それも聞いてもらえなかった。お客様は、ブラジルに持ち込むことで課税されるのであれば税金も払うので認めてほしい、と申し出られたがそれも聞いてもらえなかった。そして、このまま没収されるのではないかという不安もあった。 
 
 ところで、中南米やアフリカでは、入国時に、係官に袖の下(心づけ)を渡すことでフリーパスとしてもらうこともある、など聞いていたこともあり、それを試してみようと何十ドルかをそっと手渡そうと試みた。ところが、それは、火に油を注ぐような結果となってしまった。要領が悪かったのか、それとも係官の正義心を傷つけてしまったのか?いずれにしてもこの方法は不味く、お手上げ状態であった。自分たちのグループ以外は、そのような土産物はお持ちでなかったメンバーもすでに検査を終えて外に出られており、数名のお客様が残され、延々と時間だけが過ぎていった。どうすればいいのか?万策尽きた感じで、止む無く、それらの品物をすべて税関に預けて明日もう一度受け取りに来ることにして外へ出してもらった。果たして、明日、再交渉して返してもらえるのか、そのまま没収されるのか?それを考える余裕もなかった。正直なところ、明日、再交渉すれば何とかなるだろうという気持ち(甘え?)があったことは事実である。 
 
 
 到着口では、現地ガイドが待ってくれていて、どうして、こんなに時間がかかったのですか?との質問。無理もない、1時間近く待たせていただろう。訳を話したところ、余ほど、係官の機嫌が悪かったのか、それとも自分たちの態度が悪かったのか?そんなこともあるのだろうかと不審がられたが何とも気まずい思いであった。サンパウロは当時でも人口800万を越え、南米最大の都市、市街地がどこまでも広がっていたらしいがそれにしてもヴィラコポス空港ははるかに遠く、深夜のバスは都心目指して疾走した。 
 
 翌日から、お客様は在日ブラジル大使館商務部の協力による食肉事情視察などの公的プログラムが予定されていた。私は、団員各位に代わって税関で保管されている品物を返してもらうため、空港へ出向いた。当時、ブラジルでのタクシーは中型車であればベンツなどの高級車もあったが大多数はブラジル製のフォルクスワーゲン、まさにカブトムシ型の小さな車であった。それをホテルで交渉してもらい、一日借り切ることにした。ドライバーは、英語はほとんど解さないし、私のポルトガル語はあいさつ程度、スペイン語が少々、それと英語をごっちゃにしてドライバーにワケを話し、とにかくヴィラコポス空港に行くこと、空港では用向きがあるのでそれを待ってもらい、もう一度ホテルまで帰ってくることを承諾させた。いまでは、スマホの翻訳装置を使って多分、用を為すこともできると思うが、この時はポルトガル語会話と書いた数ページのメモを使いながらなんとか意を通じることに努めた。 

 そして、空港目指してひたすら走った。市内中心部を抜けると、空は青く、緑濃い森林やコーヒー、サトウキビ畑などが広がり、小さな町をいくつか通り抜けていった。タクシーにクーラーは付いてなく、開け放した窓からは遠慮なく風が入ってくる。前日、ホテルに着いたのは深夜であり、チェックインして自室に入ったのは日付も変わっていただろう。疾走するタクシーの中で睡魔に襲われているうちに空港に着いた。到着口の税関に行き、英語で何とか前夜のことを申し出た。責任者らしい人物に会わせてもらい、もう一度、改めて経緯を説明し、品物を返してほしいと懇願した。自分たちは、在日ブラジル大使館商務部紹介によりサンパウロで食肉事情を視察していること、その後、リオからイグアスを経てパラグアイさらに米国を経て帰国する団体であること、証拠書類として今回の日程表や名簿を提示した。ブエノスアイレスで買ったものはすべて日本に持ち帰るものであり、ブラジルで使うとか、商品見本で置いていくなどは決してあり得ないことなどを強調した。もし、ブラジルへ持ち込むことで課税されるならばそれにも応じることなどをとにかく夢中で説明し、何とか品物を返していただきたいと訴えた。 
 
 しばらく待たされた後、係官は何やら書類を携えてきて、それに署名するようにと指示した。文面はポルトガル語であって、英語の文面が添えてあり、これらの品物はブラジルに置いていくとか、第三者に渡すことは決してせず、日本に持ち帰ることなどについて誓約する内容であった。それに署名し、手数料や税金などは支払うことなく、コートやバッグなどを返してもらうことができた。持ってきたリストと照合し、全部の品物があることも確認した。フォルクスワーゲン・タクシーの後部座席いっぱいにそれを詰め込んで今朝走ってきた道をサンパウロ目指して引き返した。今度は、鼻歌の一つも歌いたい気分であった。 
 
 この旅行でのサンパウロは、空港と税関、町までのドライブ、それ以外はほとんど記憶にない。ここでの滞在を終え、今度はもう一つのコンゴニャス空港から国内線でリオへ向かった。リオでは税関検査もなく、やれやれといった気分であった。(以下、次号) 
 
《写真、上から順に》 
・ヴィラコポス空港 (1980年代、Campinas de Antigamenteより) 
・ブラジルのタクシー(例) Primeiros Carros, Sao Paulo より 
・ヴィラコポス空港への道 (1970年代、Campinas de Antigamenteより)