2024.04.08 小野 鎭
一期一会 地球旅 307 中南米での思い出 14
一期一会・地球旅 307 
中南米での思い出 (14) 
ブラジル ⑤ リオは遠かった(1) 
 
 今回は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロは遠かったという話です。 
 
 1974年、ある県の養蜂業者や農協、企業の役員など10数名でブラジルやパラグアイの産業視察ということでお出かけになった。私は、1972年にヨーロッパからブラジル、アルゼンチンなど南米を回るコースや、農協関係の添乗経験もあったのでこのグループも担当させていただくことになった。ブラジルやペルー、パラグアイには日系移民が多く、その中には養蜂業を営んでいる人たちもあり、蜂蜜の生産が盛んであることも聞いていた。 
 この年、4月3日に羽田からヴァリグ航空(RG)でリオへ向けて出発することになった。RGは、当時、ブラジルのFlag Carrierともいわれる航空会社で日本とブラジルを結んで飛んでいた。一方、日本の会社は、南米へはまだ路線を持っていなかった。RGでは、機内食は今と違って飲み物はグラスが使われ、フォークやナイフ、スプーンは銀メッキ、これも楽しみであった。ボーイング707でまさに地球の裏側へ向って飛び立つのだと内心では、かなり高揚感が沸き上がっていたことを思い出す。19時発、ロサンゼルスからペルーのリマを経てリオへは翌日午前9時15分着予定。時差が12時間あるので途中2か所に寄港するが実際の所要時間は26時間15分。それまでに40回の添乗経験があったが一つの便名でこれほど長時間同じ飛行機で飛んだことはなく、それ以後、今日まで同じフライトナンバーでそれほど長距離を飛んだことはない。 
 
 出発準備も整い、滑走路の端まで移動してエンジンの音がひときわ高くなり、機は一気に加速して走り出した。ところが数秒して突然急ブレーキが掛けられ、緊急停止した。シートベルトはしっかり締めていたのでシートから飛び出すとか、通路に転げ出る人はいなかったが乗客全員がひじ掛けに必死にしがみついたり、前の席をつかんだりしていたと思う。誰もが血相を変え、真っ青になったりして大慌てだっただろう。自分も他人事ではなく、近くのお客様を見回すのが精いっぱいであった。間もなく、キャプテンから「Bird Strike」による急停止であり、離陸できなくなったとアナウンスがあった。後で聞いた話だが、エンジンから煙が出ていたという人もあった。カモメか何かの鳥がエンジンに吸い込まれたらしい。多摩川の河口付近にある羽田空港では、鳥が飛行機にぶつかるとか、エンジンに吸い込まれる事故が時々起きていたことは聞いていたが、まさか自分たちが乗った便がそれに遭うとは! 機は滑走路から再びフィンガー(搭乗口)に戻り、そのまま機内待機することとなった。どのくらい待たされたか明確な記憶はないが、夜遅くなると(多分22時以降)羽田空港での離発着はできなくなり、翌朝まで待機ということになる。結局、機から降りて空港内待合室で待ったが空港内にあるホテルで仮泊となり、航空会社からは、翌朝一番で出発となるらしいことが告げられた。RGは、代替機の準備ができず、この機の修理と安全点検にかなりの時間がかかるため、ということであったのだろう。やむなく、団全員やりきれない思いでそれに従い、翌朝を待つことになった。当時は、携帯電話などはないので、社の上司の自宅に電話を入れて事情を説明し、リオの現地手配会社にその旨、伝えてその後に備えて欲しいと頼んだ。 
 
 翌朝、緊急修理を終えた機に乗り込み、前夜と同じ乗務員が“Bom dia!”(おはようございます!)と迎えてくれた。機は安全に飛行できるとの説明に対して不安はあったが文字通りの再出発であった。正確なところ、何時に出発したかは覚えていないが、多分、当初よりは10時間くらいの遅れであったと思う。航空機は自動車のように遅れた分を超高速でこれを取り返すというわけにはいかないので、順調にいっても目的地到着はそれくらい遅れることは覚悟せざるを得なかった。こうして米国のロスへ向かった。米国では、単なる寄港であっても一度機外へ出て米国入国と出国を同時に行うことになっており再び搭乗、ペルーのリマへ向かった。 
 ところがリマで再びトラブル発生。現地一帯が濃霧に覆われており、着陸がむつかしいので天候回復を待つため、上空で数十分旋回して待機したがこれもかなわず。燃料補給などの都合もあったのだろうか、リマ南方のピスコという空軍基地に緊急着陸した。後で地図を見たところ、250kmくらいあるらしい。ピスコに着陸してそのまま機内待機。現地では、少し明るくなってきていたが機外をみると朝もやの中に銃を構えた兵士が立っていた。多分、かなりの人数で機を取り囲んでいたのだろう。その間、配られたグラスに入ったオレンジジュースはとにかく美味しく、そのことは今も覚えている。やっと当初の予定通り、リマへ戻って着陸。ここでは必要最小限度の寄港時間で出発したと思う。そしていよいよリオへ向かって飛び立った。眼下にアンデス山脈の峻峰群が続き、雪をかぶった峰もたくさんあった。山並みを過ぎると茶色の大地が広がり時々小さな湖らしいものが見えた。中には緑、白、青、橙で囲まれた湖面らしいものがあり、さながらパレットにいくつかの絵の具をひねり出したように鮮やかな色合いであった。チチカカ湖の水面は青いと聞いているのでそれとは違うし、大きさも形も違っていた。数年前、NHKのBS放送で見た福山雅治氏が訪ねたアンデス山脈の東側にある湖であったかもしれない。荒涼たる大地が続き、地図上では、ボリビアも過ぎて次第に緑が増えてきた。広大なブラジル高原であろうか。どれもこれも自分にとっては、初めて見る地球の新しい姿であった。そんな記憶であるがやっとリオに着いた。 
 
 リオのガレオン空港に着いたのは、多分現地時間で19時頃であったと思う。つまり、本来はその日、午前9時15分着であるが10時間余りの延着。予定通り行けば26時間15分の所要時間であるが、大幅に遅れたため、36時間を超えている。とにかくリオは遠かった! 当時の旅券を見るとやっとリオに到着して、4 ABR 1974 Desembarque と入国スタンプが押してあり、懐かしく思い出す。(以下、次号) 
 
【写真 上から順に】 
・ヴァリグ・ブラジル航空 Boeing 707型機:Wikimedia Commonsより 
・リマからリオへ向かうとき、眼下に見えたのはこの湖であったかもしれない:ボリヴィアのラグナ・コロラダ(コロラダ湖) National Geographic より 
・ブラジル入国のスタンプ、そのあと、イグアスから同年4月8日に出国のスタンプが押されている。(小野の旅券の査証欄の写し 1974年当時の旅券)