2024.05.24 小野 鎭
一期一会 地球旅 313 ビルマ(ミャンマー)の思い出 1
一期一会・地球旅 313 
ビルマ(ミャンマー)の思い出(1) 
 
 海外教育事情視察団は、長期(30日間)を4回、他に短期(16日間)を数回担当、それまでとは違った、私にしてみれば未踏の地(?)をずいぶん回った。英語担当教師が数名含まれ、渉外係ということで通訳は大きな役割を担われた。添乗員である自分もその一員として扱われたので否応なく通訳業務という役割もあった。主として英語であったが、毎回冷や汗をかきながら、次第に上達していったと思う。そして、教育事情だけでなく、歴史や文化、社会事情など多方面から見聞することができた。 
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 長期の場合は、文部省所管であり、実際の教育事情、即ち、学校等視察や教育関係機関等の訪問は8日間程度、2か国または2~3都市で行われ、残りは市内見学や自由視察であり、当時はそのような旅行に全体としては相当巨額の費用が使われることに疑問視されることもあった。しかしながら、派遣された教員や教育関係者各位は多くの人が初めての海外視察であり、公的なプログラム以外にもそれぞれテーマを決めて熱心に各地を回っておられたことを覚えている。各団とも校長や教頭、教育委員会の指導主事、そして多くの教員など25~30人で構成されていた。いわば、先生方の修学旅行であったと思う。旅行中に見聞記録等をまとめる一方、旅行終了後1か月くらいで団としての報告書が作られ、さらに、それぞれの学校等で帰国報告、海外での見聞について生徒や教員室で報告されていたことであろう。 
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 折しも、高度経済成長の時代であり、日本企業の海外進展など世界中に日の丸が翻っていたころであった。先生方から海外の様子を聴いた学生諸君は、自分たちもいつか海外へ飛躍して何でも見てやろうなどと胸を熱くしたと思う。私は、すでにかなりの添乗経験があったが、多くは、医療や福祉、農協関係分野等が多く、旅行先は所謂欧米先進国であり、西欧諸国やアメリカやカナダなどであった。海外教育事情視察団もこれらの国々への派遣が多かったが、それ以外にも東南アジアやオセアニア、中南米なども含まれていた。その中にビルマ(現ミャンマー)、オーストラリア、ニュージーランド、そして、南太平洋はタヒチ諸島まで含まれており、個人的にも興味ある旅行先であった。 
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 そこで、そのうちの一つ、ビルマ、訪問都市は、当時の首都ラングーン(現ヤンゴン)について書いてみたい。この国は、1948年に英国から独立し、時代を経て社会主義国家への道をたどり、1974年にビルマ連邦共和国へと成っていた。我々が訪れたのはまさにこのころであり、いわば新生ビルマ連邦であった。 

 その後、1988年に全国的な民主化要求デモにより、26年間続いた社会主義政権が崩壊した。しかし、国軍がデモを鎮圧して政権を掌握、その後、選挙でアウン・サン・スー・チー氏が率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの政府は政権移譲を拒否、スー・チー氏が率いる民主化勢力は軍政により厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間に3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。その後も、軍政が指導する政権が続いたが、2015年、総選挙実施、NLDが圧勝、2016年、スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。スー・チー氏は国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸政策を遂行。その後、国内の政情不安定化により、70万人以上が隣国バングラディシュに流失。2021年、ミャンマー国軍が大統領ほかスー・チー国家最高顧問など政権幹部を拘束。国軍司令官を議長とする国家統治評議会が設置された。その後、スー・チー氏は、禁固刑及び懲役刑の刑期は刑期33年とされている。軍政は現在も続き、一方では、民主化闘争も続き、国内情勢は不安定な状態が続いている。(外務省資料から要約) 
 
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 この国の最近の経済環境等について興味深い資料がある。 
 ミャンマー・クーデターから2年、日本の向き合い方として、NHK 専門解説委員 二村伸氏の解説から一部を拾ってみよう。「2010年民主化政権が誕生依頼、最後のフロンティアと呼ばれ、日本を含む各国企業が進出したが、軍部による2021年のクーデター以後、状況は改善されず、戸惑いと失望感がうかがえる。長い暗黒時代から国際社会に開かれた国になるという期待感は大きく裏切られている。日本からは、400社余の企業が進出したが撤退を余儀なくされるところもある。しかしながら、欧米企業などがミャンマーから手を引いても中国やロシア、タイ、インドなどが結び付きを強めるだけという見方もある。外国からの投資は激減したが、去年は一昨年より件数が大きく増えている。その半分が中国、ロシアは軍事面での協力を強化している。この国を変えるには、国際社会の圧力が必要であるが、各国の国益も絡んで結束はむつかしい状況である。」(NHK 専門解説委員 二村 紳 氏、2024年3月21日公開) 
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 この国の英語表記は、Republic of the Union of Myanmarミャンマー連邦共和国である。ところがこれに至るまで、1948年、独立当時はUnion of Burmaビルマ連邦であり、1974年、社会主義体制となってSocialist Republic of the Union of Burma ビルマ連邦社会主義共和国、その後、社会主義体制が廃止されて1988~1989年、ふたたびビルマ連邦、そして、1989年軍事政権「国家法秩序回復評議会」は、英語表記をUnion of Myanmarミャンマー連邦と改称した。変更したのは英語表記のみで、ビルマ語での国名は以前のまま同じである。日本政府は、軍政を承認しており、それまでのビルマからミャンマーに改めたが、軍事政権の正統性を認めない立場から名称変更を認めないものも多かった。ミャンマー国内では、アウン・サン・スー・チーや当時の亡命政府であるビルマ連邦国民連合政府は、「ビルマ」と呼び続けた。2010年時点では、米・英・豪・加は「ビルマ」とする一方、日本、ASEAN諸国、印・中などは「ミャンマー」表記を採用していた。ただし、2010年代初期に民主化改革が始まってからは、米政府関係者が「ミャンマー」と呼び始めるなど、この呼称が浸透しつつある。 
 
 マスコミの対応も様々であった。 Washington Post、VOA(Voice of America)、Time は「ビルマ」を用い、New York Times, Wall Street Journal, CNN, UP, AP, Reuter は「ミャンマー」を採用している。BBCは、2014年に変更し、軍事政権の否定からビルマを使用していた人権団体アムネスティ・Int’lは民主化してから併記を採用していた。日本のメディアは多くが外務省の決定に従い、呼称を変更したが、軍事政権を認めない立場から括弧付きで、ビルマを使い続けるものもあった。朝日新聞は、長らく「ミャンマー(ビルマ)」と表記していたが、2012年の春ごろから(ビルマ)を削除している。また、毎日新聞は、「ミャンマー」表記を原則としつつも、専門家の寄稿については、「ビルマ」表記も容認した。(英語表記についてはWikipedia) 
 
 このように、国そのものはあっても、外国勢からは様々に呼称されてきたことについて、この国の人たちはどのように感じているのだろうか。(以下、次号) 
 
《資料》 
・ミャンマーの歴史 : 外務省資料から要約 
・ミャンマーの経済環境 : NHK専門解説委員 二村 紳(2024年3月21日公開) 
・ミャンマーの英語表記について : Wikipediaから要約 
 
《写真》 (上から順に) 
・文部省派遣教員等海外教育事情視察団 (昭和48年度 第43団) 左端が筆者 
・南太平洋 ソシエテ諸島 モーレア島(タヒチ島の沖合) 1974年2月 筆者撮影 
・ラングーン(現ミャンマー・ヤンゴン)のインヤ湖畔にて 1974年2月 撮影 
・ラングーン市内のシュヴェダゴン・パゴダ境内 1974年2月 筆者撮影 
・ビルマ(現ミャンマー)の地図 World Atlas  2024年版