2024.08.19 小野 鎭
一期一会 地球旅 324 オーストラリアの思い出(9)メルボルン9 ゆきわりそうの旅(続き)
一期一会・地球旅 324 
オーストラリアの思い出(9)メルボルン9 ゆきわりそうの旅(続き) 
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 「ゆきわりそう・メルボルンへの旅」の滞在中のもう一つの大きなイベントは、「オーストラリアひまわり号の旅」であった。メルボルンから西の方へ大草原を110kmほど行ったところにバララットという町がある。19世紀中頃に金が発見されたことから入植者が集まって次第に町となって繫栄し、現在の人口は11万人くらいでビクトリア州では3番目とある。学校や医療機関も多く、教育の町、福祉の町としても知られている。高齢者福祉などについて学ぶため、日本から訪れた人も多いと聞いたことがある。金鉱の町として発展したバララットには金鉱を保存したテーマパークがあり、開拓時代の建物などが再現されている。メルボルンからは鉄道便がある。メルボルンのもう一つのターミナル駅サザン・クロス駅から出ているがこの駅は、2005年まではスペンサー・ストリート駅と呼ばれていた。この駅からバララットまでは、約2時間、車窓には牧草地が広がっていた。 
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 バララットへの旅の仕掛けは、セント・ジョンズ・ホームズのF.ビア氏。この日も大きな身体で車内を忙しく行き来しては、にこやかに笑みを浮かべてホスト振りを発揮してくださった。バララットの金鉱の町テーマパークでの昼食と午後のひと時はお土産を買うとか、木陰で午睡を取ったりした。夕方、メルボルンへ戻る途中から曇り空になり、やがて大粒の雨が窓をたたいた。車窓からの風景は見えなくなってしまい、シートにもたれてぐっすり寝込む姿がそこここに見えた。しばらくすると雨が上がり、空は次第にはれ上がっていった。誰かが大きな声を発した。「虹だ!」 どこまでも続く牧草地の上に大きな虹がかかり、車内では大歓声が上がった。まさに、ゆきわりそうの「ひまわり号」が実現した感じであった。 
 
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 準備段階でふれたY君のお母さんはメルボルン滞在中に人工透析を2回受けられた。メルボルン到着日の午後、お父さん同伴でさっそく透析センターへ。私は到着早々であり、種々の業務で動けないのでもう一人の添乗員K社員が同行。今回の旅行には、Y君は一家3人で参加されている。Y夫人は、恐怖感もおありだったそうであるが、透析のルーティンは日本で日ごろ受けられているやり方とあまり違いがなく、次第に緊張もほぐれて順調に初めての受診を終えられた。初めての海外旅行であり、見知らぬ医療機関で受ける透析は、もしうまくいかなかったら生きて帰ることができないかもしれないという不安でいっぱいだったとのこと。息苦しいほどの思いをされたそうであるが、順調に透析が行われ、何の問題もなく終えて安堵感を覚えられ、ホッとされた様子がうかがえた。翌日の地元紙に、Y君と車いすを押して歩くご一家3人の微笑ましい写真が載った。一躍有名人となり、町に買い物に行ったとき、市場などで町の人たちから声をかけられ、嬉しそうな様子が見られた。 
 
 Y君のお母さんは、それから数年後、実弟さんから腎臓を一つ提供されて腎移植の手術を受けられた。それからは毎回のゆきわりそうの旅に家族3人で参加されるようになった。あれから36年が過ぎ、この時、高校生であったY君は、今では、中年のおじさん。オーストラリア旅行の後に創立された合唱団の一員であり、さだまさしの大ファン。氏の作詞・作曲になる「奇跡・大きな愛のように」の練習に参加している。 
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 最後に書きたいことがもう一つある。宿舎はゴージャスなホテルとはいかなかったが午後のひと時、あるいは夕食後の芝生の上での団らんでそれぞれのご家族から日々の生活や、わが子に重い障がいがあることを知って親子で死んでしまいたいと思われたこともあったという話も聴いた。子どもたちの介護に明け暮れる厳しい日々、一方では、ケア付き短期アパートゆきわりそうの開設により、予期せぬ緊急事態が起きたときにも利用できることで助かった話なども聴かせていただいた。この旅行に参加できて、皆さんと一緒に楽しい時間を過ごせたと喜ばれる声も聞こえた。一行の中でN君のご家族の話もお聞きした。N君の姉を23歳のときに白血病で亡くされていた。N君は、この旅行に両親とともに参加、重度の障がいがあり芝生に寝ころんで南十字星を探している姿が頼もしかった。皆さんがお互いに話される様子を見ていると、かつてアメリカの重度障害者施設などで聴いたピア・レヴュー(Peer Review)とは、こういうことなのかな、と思った。 

 たくさんの思い出を皆さんが持って帰られたゆきわりそうの初めてのオーストラリア旅行は、こうして無事終了された。エリス師やビア氏など、セント・ジョンズ・ホームズの皆さんと現地で出会った多くの人々、ニューマンカレッジの学生寮の食堂のスタッフ、透析センターの医師や看護師、リフト付きバスのドライバーなどたくさんのAussieの協力とホスピタリティなどがほんとにうれしく有難かった。今もエリス師は忘れ得ぬ恩人として私の心に深く残っている。この方々の力添え抜きには、私はこの旅行を作り上げることができなかったであろう。また、カンタス航空の営業マンS氏にはその後もたびたびお世話になり、30数年後の今も年賀状を交換している。姥山代表に初めてお会いして、ゆきわりそうの利用者と家族などが集ってオーストラリアの大地を旅してみんなで喜び合いたい、と伺ってから一年数か月後、それに応えることができた。この旅行を任せていただけたことに改めて心よりお礼を申し上げたい。 
 
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 この旅行を担当させていただけたことで、ゆきわりそうグループの海外旅行などをこれまでに20数回お世話させていただいてきた。 90年代中頃には、障がいのある方の旅行であるとか、社会について興味のある旅行関係者や、学生、社会人など異業種交流も盛んになり、「もっと優しい旅への勉強会」が結成され、私は事務局を担当するなど、この分野の旅行促進についての啓発活動にも力を入れてきた。「障害者旅行」から「バリアフリー旅行」さらに「ユニバーサル・ツーリズム」の普及に力を入れてきたことが今につながっていることを改めて深く思う。 
 
 「地域福祉研究会ゆきわりそう」では、1987年7月の設立当初から基本理念として三つの柱を掲げてこられた。①すべての枠を外す、②障がい者や高齢者を生活者としてとらえる視点、③小集団構成で活動を進める、がそれである。その後、NPOゆきわりそう、さらに社会福祉法人地球郷を設立された。そこで、活動方針には、④公的保障で生きていけるシステムづくりを加えた「4本の柱」を掲げて、さらに幅広く、より綿密に地域福祉活動に力を入れておられる。今では、姥山代表はゆきわりそうグループの名誉理事長に就かれ、地球郷の松本伸子理事長が代表を務めておられる。(以下、次号) 
 
《写真、 上から順に》 
・バララットにて、後方左端がF.ビア氏 1988年12月 姥山寛代編著「ノーマライゼーションをめざして」より 
・バララットの歴史公園にて 1998年12月 筆者撮影 
・地元紙に掲載されたY様ご一家 
・ニューマンカレッジ学生寮の中庭にて。腹這っているのが筆者 1988年12月 
・オーストラリアへの旅行以後ゆきわりそうの皆様を海外へ20数回、ほかに国内も数回ある。この写真は、ドイツのボンでベートーヴェンの第九交響曲「歓喜の歌」を現地市民と合唱(1993年5月)したときの思い出。合唱と海外公演については、改めてご紹介させていただきます。