2024.09.09 小野 鎭
一期一会 地球旅 327 オーストラリアの思い出(12)タスマニア1
一期一会・地球旅 327 
オーストラリアの思い出(12)タスマニア① 

 オーストラリアはメルボルン以外にもシドニー、連邦の首都キャンベラ、ほかにクインズランドの州都ブリスベーン、南オーストラリアはアデレード、そして西オーストラリアの州都がパース、結果的に豪州の100万都市5か所全部を訪れていることになる。それに比べるとタスマニアの州都ホバートは可愛らしい町である。初めてのオーストラリアは1974年、メルボルンから始まったが、次いでホバートへ飛んだ。飛行機の窓からちらっと見えたタスマニア島はどこまでも森が広がっており、時々、湖水に日が照り映えていたが、町らしいものはほとんど見えなかった。ガイドブックなどを見てもあまり人の手が入っていない土地が広がっているらしい。リンゴを二つに切ったような形の島であるが、面積は6万8千㎢、北海道の8割くらいの大きさでほかにいくつかの島と合わせてタスマニア州となっている。 
 
 島の東南部分の細長い湾を入っていくとダーウェント川になっており河口部分(?)にホバートの町がある。一言でいえば、この町は、明るいけれど、涼しい感じであった。2月と言えば、南半球のこのあたりも真夏にあたると思われるが、この町は南緯42度であり、日本でいえば北緯42度、北海道の室蘭と同じ緯度であり、しかも南極海からの海流などが沖合を流れているらしい。最初にやってきた英国人にとっては、複雑な海岸線と言い、あまり暑くない気候であればそれほど違和感はなかったのだろう。NHK の「世界ふれあい街歩き」にホバートがあった。ホバートは、シドニーに次いで、オーストラリアでは、2番目に古い町、1803年に流刑植民地として開拓がはじまった。1820~1830年代にはイギリスから多くの実業家が来島し、当時、英国で流行っていた様式の建物が造られ、家具や食器などの物品、娯楽やスポーツなど文化的なものまで含めて、多くの面で英国流が取り入れられ、町は活性化していき、「歴史と暮らす港町タスマニアのホバート」として、紹介している。 
 
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 世界地図を見ると、英国からタスマニアは左上から右下に向けて一直線に結ばれる感じであるが距離にすると多分、地球の周りの半分に近い距離(1万8千㎞)位になるであろう、ニュージーランドと並んで英国から一番遠いところにある土地ということになると思うがこんなに遠くまでユニオンジャックの旗を翻した英国の海洋進出にはただただ驚きである。 
 
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 大都市メルボルンから来てみるとホバートの町は何とも可愛らしい町といった感じであった。この時は、町の中心部にあるタウンハウス風のホテルに泊まったが当時は車も少なく、人通りもそれほど多くはなく、日本でいえば地方の中都市といった趣であった。一方では、ヨット好きの人が多いと見え、町中の通りにはあまり人通りは多くなかったが、海にはたくさんのヨットが浮かんでおり、その向こうには、1973年に建てられたレストポイントホテル&カジノがひときわ高くそびえていたのが印象的であった。 
 
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 一行の中の誰かが近くの公園を歩いていたところ、トイレには、「男」「女」と日本文字で案内があったとか。また、港の近くには「日本海員クラブ」と看板があって、そのわきに食堂の案内もあった。かつて日本鰹鮪漁業組合連合会の旅行業務を取り扱ったことがあり、ホバートは、南太平洋や南極海方面で操業するに日本漁船への補給基地になっており、ここホバートは、日本漁船の乗組員が休息する場所となっていると聞いたことを思い出した。ここタスマニアでそれを実際に見たことはこれも興味深いことであった。74年のこの時は、学校見学が終わった後の夕食は、この海員クラブにあった日本食レストランで久しぶりに白いご飯とみそ汁、焼き魚や生ガキ、アワビの刺身などに舌鼓を打って旅の疲れを癒すことができたと団員各位が喜んでおられたことを思い出す。当時、撮った写真と半世紀過ぎた今の町の写真などと比べてみると中心部のハーバーフロントやMt.ウエリントンの展望台からの市街地遠望などさほど変わっていないところなどもあり、新旧の美しさが保たれていることを感じる。教育関係の視察や州の行政関係訪問については報告書にある以外はあまり鮮明な記憶はないが学校見学等では通訳も担当したと思う。メルボルンですでに経験していたので徐々に要領を覚えて頑張ったのであろう。 
 
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 その次にタスマニアを訪れたのは、1985年3月、資生堂児童福祉海外研修団の添乗であった。タスマニアで5日間、その後、メルボルンでさらに3日間の研修であった。1981年のセント・ジョンズ・ホームズでの研修で通訳を務めたこと、その後、欧米やアジアでの医療や福祉などの添乗・通訳も担当していたこともあり、これらの経験を踏まえてタスマニアとメルボルンでも添乗はもちろん、通訳も務めたことが当時の写真や自分のメモからも思い出すことができる。この80年代から90年代にかけて毎年150~180日ほど、海外添乗へ出て多くの視察や研修、国際会議出席のお手伝いなど、自分の旅行業人生では一番活発な時代を過ごしていたような気がする。 
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州都ホバートでは、タスマニア州地域福祉省で福祉行政と児童養護などについて説明を受けている。この州での福祉行政は、1880年(日本でいえば明治13年)に始まり、1901年に成立したオーストラリア連邦政府よりも前に開始されていたことが興味深かった。当時、イギリスよりの植民地からはすでに解放されていたが、市民の生活は貧しく、町には浮浪児が溢れ、これらの子供たちをどのように救済するかが地域行政としての大きな役割であったと聞いている。多分、第二次大戦後、わが国でも戦災孤児や国民への対応に追われていた厚生行政も似たような状況であったのかもしれない。州行政について説明を受けた後、ホバート市内と近郊並びに島の中央部を北上してデロレーヌ、ダベンポート、シェフィールド、ウルヴァーストンなど北部地域一帯でも児童養護施設や教護・矯正施設などを見学している。ここでも民間施設はビクトリア州同様にアングリカン系(英国国教会系)のサービスが多かったことがわかる。ここで訪れたクラレンドン子どもの家(Clarendon Children’s Home)は2004年に閉園されているが、現在はAnglicare Tas (アングリケア・タスマニア) https://www.anglicare-tas.org.au/が児童・青少年と家族への支援サービスを行っており、これらが州全体でかなりの部分を受け持っていることがうかがわれる。ただし、Anglicare Victoriaが児童や青少年、家族への支援などを主としていることに比べると、Anglicare Tasは、高齢者への対応にも力を入れていることである。(以下、次号) 
 
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《資料》 
・ホバート NHK 世界ふれあい街歩き(初回放送 2020年4月14日) 
 
《写真、上から順に》 
・Mt.ネルソンからみたダーウェント川河口付近と手前がホバート市街。1974年2月 筆者撮影 
・ホバートの沖合に浮かぶたくさんのヨット。中央部右手、遠くに見えるのがレストポイントホテル&カジノ。 1974年2月 筆者撮影 
・Mt.ネルソンから見た現在のホバート市街、手前の高層建築がレストポイントホテル&カジノ。 Visit Tasmania 資料より 
・児童福祉海外研修 ホバートのアングリカン・ファミリーケア・サービスにて。 1985年3月 
・同上、タスマニア州地域福祉省にて。 正面中央 筆者 1985年3月 
・同上、Mt.ネルソンの頂上にて。 真ん中筆者 同上