2024.10.15 小野 鎭
一期一会 地球旅 332 ニュージーランドの思い出(1)ウェリントンにて
一期一会・地球旅 332 
ニュージーランドの思い出(1)ウェリントンにて 
 
 初めてのニュージーランドは、1974年2月、海外教育事情視察団の添乗であった。とはいっても、ビルマ(現ミャンマー)とオーストラリアのメルボルンとタスマニアで学校等教育事情視察についての公的なプログラムは終了しており、その後のシドニーからニュージーランド&南太平洋などは社会見学と言おうか歴史や民情視察、自然などを見学するといった方が良いかもしれない。全行程1か月のうち、学校等教育事情視察は全部で8~9日間、残りの約20日間は専門視察外で市内見学や自由見学、そして移動日となっていた。日本には「外遊」ということばがあるが「留学や研究、視察などを目的として外国を訪問することを指し、特に政治家など公人が外交目的で諸外国を歴訪すること」に対して使われることが多いが、文部省派遣の教員等海外教育事情視察団も見方によってはそれに近かったかもしれない。費用は全体の内、半分以上が国及び地方自治体による公費で賄われており、個人負担は半分以下であったらしい。それを考えるとやはり良き時代であったのであろう。自然や歴史、文化、民情など当時の風物と社会の様子を見ることで、そこから得た知識や感想などを持ち帰り、それぞれの学校などでそれを伝え、報告することでそれを聞いた子どもや学生たちが将来自分たちも海外で学び、雄飛するように夢や希望を持たせることで一定の成果があったと思われる。
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 タスマニアの後、シドニーを経て、ニュージーランドのウェリントンへ飛んだ。オーストラリアの東海岸とニュージーランドの間にはタスマン海があり、距離は約2,300km。東京と台湾の台北と同じくらい、飛行時間は2時間半~3時間といったところだが時差が2時間あり、西から東へ飛ぶときは、4時間くらい先に到着することになる。この国は、北島と南島および周辺の島嶼群から成っており、全体の面積は日本の本州と九州を合わせたくらいで約26万㎢、人口は約500万強、福岡県か北海道と同じくらいらしい。人口は、北島のオークランドと首都ウェリントン、南島のクライスト・チャーチ、この三つの大きな都市に集中しており、全体としては人口がまばらで、広大な大地が広がり、特に南島にはサザンアルプスと呼ばれる3000mを超す山脈があり、フィヨルドが連なる複雑な海岸線となっており、自然美にあふれた国としても知られている。ニュージーランド人は、自らを「キーウィ」と称する国民のうち、70%近くが欧州系、15%くらいのマオリ、9%がアジア系、残りがマオリ以外のポリネシア系から成っている多民族国家である。多種多様な民族が暮らすこの国は、まさしく人種のるつぼで、これほど多彩な文化が混在している国は世界的にもあまり例がないと紹介されている。(100%Pure New Zealand  = https://www.newzealand.com/jp/feature/new-zealand-people/ ) 
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 勿論、最初のニュージーランド行きはそんなことを知ったうえで訪れたわけではない。英国系と先住のマオリなどポリネシア系住民が混在する国であり、文化も多様であるが、なんといっても人口の何倍もの羊が飼育されている国であり、牧羊産業で知られている国であろうという漠然とした知識のまま訪れたのであった。この時は、首都ウェリントンが最初の訪問地であり、北島の一番南側に位置しており、風の町としても知られている美しい町であるというのが率直な印象であった。この視察団の団員のお一人、担当であったSさんが、ウェリントンの町の様子について報告書に書かれている。「ウェリントンは、北島の南端クック海峡に面し、1865年以来の首都であり、人口30万、丘陵の都市である。クック海峡から吹き付ける風が『風のウェリントン』と呼ばせるほど風の強い街だそうである。バスは、狭くて古い道路を通り抜けて、マウント・ビクトリアに出た。車窓からの見るとこの町は、我が国の町にも似ているという印象を受ける。丘の上に立って、眺めると、青い海、白い家、赤い屋根、山の緑の濃さが冴え冴えとした空の色にも溶け込んでその調和の見事さが深々と胸にしみてきた。また、この街は工場がないため、空も水も美しいと、ガイドの説明に心からうなずくことができた。・・以下、略」、 
 
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 ところで、このウェリントンの空港到着時、機内で最初に受けた洗礼が、すでにオーストラリア編で書いたように、消毒のためのスプレー噴射であった。他の地域からの雑菌などが衣服や手荷物に付着しているかもしれないのでそれを消毒するための作業であった。それを終えて、初めて機外へでて、入国審査を受ける。旅券に入国スタンプが押され、税関検査に臨んだところ、スポットチェックで何人かに一人がスーツケースを開けて中身を見せるようにと指示されていた。メンバーの一人が、ビルマかタイで買ってきた猿か何かの小動物の手先部分で作られたキーホルダーのような民芸品であったと思うがそれを咎められていた。どうやら、手の部分にわずかではあるが肉片が残っており、乾燥してはいてもそれが規則に抵触するらしい。生の動植物製品の持ち込みは検疫上、厳しく制限されており、この国が経由地であって、日本に持ち帰る土産品であっても、この国に入る以上それについての検査を拒否することはできなかった。その方(学校の教員)は、家族かクラスの子どもたちへの土産物として求められたものらしく、ビニールの袋らしきものに7~8個入れてあったのではないだろうか。検疫官は、この品物は持ち込めないので、ここで廃棄するようにと命じていた。件のメンバーはどうしても持ち帰りたいので何とか許してもらえないか、厳重に封印してスーツケースにしまい込み、決してこの国でそれを開くことはしないと誓約するので認めてほしいと懇願された。しかし、これは認めてもらえず、始末書や誓約書で済むという話ではなかった。一方で、係官は、上司らしきスタッフと相談していたが、ここで朗報らしき反応があった。これらをこのまま封印してボンド扱い(Bond=保税扱い)して、この国から出国するときにそのまま持ち出すようにとの特例が示された。これからの旅程はここからロトルアを経て、最終地は、オークランドであり、5日後にタヒチへ向かって出国することを説明した。そこで細かい指示に従い、品物を袋に入れて封印し、オークランドへの輸送は税関側にお願いして、一件落着となった。その時の送料はどうなったのかなど細かいことは覚えていない。 
 
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 とにかく、その後、オークランド空港で出国手続きの後、封印された品物を受け取り、それ以後は、スーツケースの奥深くにしまい込み、タヒチやそのあとのハワイなどでは見つかること無く、無事日本に持ち帰ることができたと聞いている。ただし、これは半世紀前の話であり、今もそんなおおらかな扱いをしてもらえるとは思えない。日本の検疫がどうであったかはこれもまた記憶にはない。当時、海外旅行は急激に盛んになってきていたが、海外旅行に不慣れな人が圧倒的に多かったし、旅行会社の説明も不十分であったのだろうと思われる。税関検査や検疫でもめたことはよく聞いていた。事実、この翌年、アルゼンチンからブラジルへ飛んだ時、毛皮製品など日本への土産物についてもサンパウロの税関でもめるという苦い経験をしたが、これはすでにこの地球旅303号で書いており、税関でもめたことと言えば真っ先に思い出す旅の失敗談である。いずれにしても、税関規則や検疫については、旅行説明会などで、慎重を期して毎回丁寧に説明することを心がけた。(ウェリントンの税関での苦労話はこれで終わり、ニュージーランド編は次号へ続く) 
 
《写真と資料、上から順に》 
・ニュージーランド地勢図 World Atlasより 
・クック海峡とウェリントン市街 1974年2月 筆者撮影 
・ウェリントン市街を望む高台にて(足の長いこの写真を、個人的には気に入っている!) 1974年2月。 
・ニュージーランド入国についての説明書( 2024年版 You Tube表紙)