一期一会地球旅
初めての添乗経験
小 野 鎭
この4月に旅行業従事50年を迎えて、として雑文を書かせていただいたが、その中にこれまでに230回余りの海外添乗を経験してきたことも述べた。多くは、医療や福祉関係者の視察や研修団のお供であり、私自身も数多くの病院や福祉施設などを訪ねたり、障がいのあるお客様の旅行にも力を入れてきた。 これらのことについては別の機会に書かせていただきたいと思っている。 多くの旅行は計画通り順調に無事終えているが、中には予期せぬトラブルや事故が起きて冷や汗をかき、あちこち走り回って苦労したことも数多い。中には自ら招いたために胃液がこみ上げるような苦い思いをしたこともあれば、不可抗力により降ってわいたような出来事もある。むしろ、毎回、大小のトラブルが起きる方が普通といってもよいかもしれない。今回は、添乗業務はまだ駆け出しのころの懐かしい思い出を幾つか書いてみたい。 旅行会社入社当時は、予約課に配属され、もっぱら国際線航空便の予約や発券などが任務であったが、2年目の終わりの頃、大阪支店の応援に借り出され、呉服商関係団体に3人の添乗員の一人として出かけた。1966年1月24~30日 香港・マカオ(日帰り)・台北を巡る7日間は初めての添乗経験であった。京都の老舗の呉服店の旦那衆や奥様方ということで、羽織や着物姿70余名で香港見物、団長氏は、白の羽織であったのでなおのこと目立った。日本人として恥ずかしくないようにと一行はマナーにもかなりの気を使われていたことを覚えている。文字通り折り目正しい日本人であった。初めての欧州のことは前回も述べたが雪のアルプス越えと英語で苦労したことが今も思い出される。1967年11月8日に日本を出発して、1週間目にスイスのチューリヒからイタリアのミラノへ向かった。このころには、全行程を一緒に回ることになっているスイス人エスコート(Through Escorts)との英語での会話もだいぶ慣れてきており、多少冗談も言えるようになっていた。この日は、途中、聖ゴットハルト峠(St.Gotthard Pass )を越えることになっており、申し訳ないけれど、お客様以上にスイスアルプスの雄大な風景を見ることを楽しみにしていた。ところが、エスコート3人が何やら険しい顔をしており、ただならぬ様子。そして、告げられたのは、昨日来の雪で、峠(2016m)を大型バスで超えることはできないらしい、ということであった。ミランへ向かうアルプス越えの街道筋のレストランで4人の添乗員、3人の運転手を交えて協議。結論は、人間は、ゲシェネン(Goeschenen)で鉄道に乗り換えてゴットハルトトンネルを抜けて山の向こう側に行く、ということになった。そして、バスは空で峠を越えて山の向こう側(Airolo)で待機、無事バスにもどって予定通りミラノへ行くことができた。今は昔の物語であるが、バス3台、150名近くの大型の団体となると緊急の場合の旅程変更は容易ではない。旅客の安全を第一として旅行日程は可及的速やかに原状復帰すること、その一方で経費を抑えることなど咄嗟の判断の難しさを知ったのはかなり後のことであったような気がする。
ずっと後にグリムゼル峠(Grimsel Pass)でも似たような経験をしたことがある。この時はお客様に事情を説明し、運転手と相談して経路を変更、月変シュタイン(Goppenstein)でCar-Trainにバスごと乗り、レッチベルク・トンネル(Loetschberg)を抜けてベルン州へ出たこともある。このころには、多くの経験をしていたのでかなりの難事であってもあまり苦労することなく解決することができるようになっていた。 現在、スイス縦貫自動車道路にはゴットハルト・トンネル(16.9km)が設けられており、一度通ったことがある。ゴットハルト峠は観光用に回ることが多い。雄大な眺めは時間が許せばぜひ回りたいこところ。こんな回り道なら大歓迎である。一方、スイス連邦鉄道(SBB)は、かねてよりゴットハルト鉄道トンネルを建設中、2016年に完成が予定されている。長さ57㎞あまり、青函トンネルを抜いて、世界一の長さになるらしい。
ミラノを経てフィレンツェに行った。今日ではルネッサンス発祥の地としてガイドブックにもごくふつうに紹介されているし、この地を訪れる日本人観光客について言えば、多分ローマに次いで多いのではあるまいか。しかし、当時はまだルネッサンスは“文芸復興”として紹介されていたし、日本人観光客も少なく、多くのヨーロッパの観光地がそうであるようにここでも現地ガイドは英語であった。
その後、イタリアからモナコ~南仏を廻ってパリへ至り、体重がかなり減って初めての欧州添乗を無事終えることができた。