2014.05.14 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅④「初めてのジャンボ機 Boeing 747」

初めてのジャンボ機 Boeing 747

小野 鎭

 さる3月31日に全日空のBoeing 747  通称ジャンボが最後の飛行を終え、退役したとのニュースが報じられていた。多くの航空機ファンが最終フライトに乗ったり、写真を撮りに羽田空港に出かけたなどと大きな話題になっていた。そして、4月16日夜、羽田を離陸してアラスカのアンカレッジ経由、米国ミズーリ州の売却先へ向かったそうである。成田からではなく、羽田からというのがうれしい。羽田に始まって、羽田に終わったジャンボであった。
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かく言う筆者は、最終フライトを見に行ったのではなく、反対にジャンボが日本に初来日した日に見に行ったことを書いてみたい。当該機がパンナムの機材であったことは覚えているが、正確な月日を覚えていないので、心当たりを探してみた。残念ながら新聞の縮刷版を読むために図書館に行く時間は取れないので、手っ取り早くいくつかのホームページを探してみた。その結果、日本旅行業協会(JATA)のニュースレター(2014年2月20日版)に「海外渡航自由化50年シリーズ・第2弾  ジャンボ機の登場  海外旅行の普及に拍車」という記事があった。それに拠ると、1970年3月11日にパン・アメリカン航空のボーイング747型機「クリッパー・キットカースン号」が東京国際空港(羽田空港)に飛来し、日本の海外旅行市場でも、「ジャンボ時代」が幕を開けた、とある。何しろ44年前のことである。筆者は、実際に搭乗した航空便は、搭乗日、便名、機種、搭乗区間、飛行距離について初めて乗ったときから、これまでのすべての飛行記録を残しているが、実際に乗ったのではなく、見に行っただけなどのことは記録していない。そのころの書類などはもちろん残っていない。春先であったことは覚えているが具体的な日時は覚えていない。当時は、団体旅行はもちろん、個人客であっても、これは、というお客様は出発時のお見送り、時には、帰国時もお出迎えに空港へ行っていた。会社は大手町にあり、羽田空港までは、1時間以内で行けたし、営業上、大切なお客様サービスと心得て忙しく動き回っていた。ところが、この日は、そのようなお客様もなく、空港に行く理由はなかった。そこで、上司に今日は空港に行く用事はありませんか?と聞いてみたが、さしたる用件もなかったが、上司は、こちらの意図を察して、「ジャンボ、見たいんだろ、行って来い!」と許可をもらった。空港に駆けつけてみると白地に青のラインが入った巨大なヒコーキがすでに駐機場に入っており、長いタラップがつけられていた。まだ、Avio-Bridgeなどと便利なものはなく、搭乗ゲートから歩くとかバスで駐機場まで行き、そこからタラップを上って航空機に乗り込むのが一般的であった。この時代は各社ともDC-8やB-707といった機種を長距離国際線で使っていた。在来機は定員145~160名であったが、それらに比べると、ジャンボ機はとてつもなくデカく、定員も400人前後とこれまでの2~2.5倍くらいもある。まさに大人と子供ほどの違いがあったような気がする。そして、これほど大きな航空機が空を飛ぶということがどうしても理解できないほどの驚きであった。機内はどれほど広いのだろうと興味津々であったが、残念ながらまだ機内を見学できるような立場にはない駆け出しの頃であった。一日も早く、颯爽とジャンボに乗ってみたい、たとえ自分のお金ではなくお客様のお金(添乗員)であっても、と思いながら遠くからその巨体をうらやましく眺めていた。 さて、ジャンボ機初登場から、2か月後、思わぬことで筆者にもこれに乗るチャンスが巡ってきた。その年、5月5日PA002  TYO/HNL 5月9日PA001  HNL/TYOとある。パンナムの747に初めて乗ることができて何やら鼻が高くなったような気がした。機内に入ってみると、とにかく広い!の一言、それまでの座席は片側3列ずつ、間に通路を挟んでいたが、こちらは3列4列、そして3列で通路が左右にある。トイレも真ん中あたりと後方、スチュワーデスが左右の通路を行ったり来たりしていた。言ってみれば、4畳半から大広間に入った気分。機内ではみんな物珍しく写真を撮り合っていたことが思い出される。 この時のお客様は、それまでお世話していた視察団などではなく、歌謡番組の出演者やファンの皆さんであった。当時、テレビの人気歌謡番組「ロッテ歌のアルバム」のハワイ特別ショーが行われるとのことでこれに出演する歌手や入場希望のお客様など60数名のお世話を社で請け負っており、応援の添乗員として行くことになった。出演者の中には、今も大活躍の森山良子さんがおられたが、司会の大御所玉置宏氏は、別便だったのか旅行でお世話した記憶はない。  現地では、お客様のお世話は勿論、ショーの裏方として会場設営やホテルへの様々な注文、その他もろもろ、
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使い走りとして忙しかったことを覚えている。ハワイは前年7月に世界一周の帰途ホノルルには寄っていたので現地事情はそれなりに心得ていた。あまり慌てることは無かったが、それにしてもあわただしい4泊6日であった。さらに、ご丁寧にもホノルル滞在中、オプショナルツアーでカウアイ島まで出かけている。当時は、テレビの人気がますます高まってきてはいたが映画も盛んであった。エルビス・プレスリーの「Blue Hawaii」や「HawaiianWedding Song」のメロディは甘かったし、フラダンスやウクレレの響きも心地よかった。ハワイといえば、何といっても加山雄三氏、ハワイの若大将に魅了されて新婚旅行先としての人気が高まり、海外へのハネムーンが盛んになっていったのもこのころからであった。 パンナムに続いて、日本航空もその年7月には太平洋線にジャンボ機を飛ばすようになった。ジャンボ機の登場は、多くの人数をいちどきに運ぶことができるということで、そのころ設定されていたグループ運賃(10名、15名など)よりはもっと大きく40名を最少催行人数とするBulk Fare(バルク運賃)が導入され、ハワイまでの単純往復運賃も大幅に下がったと記憶している。それまではハワイのパック旅行が30万円以上していたが一気に20万円前後になるなど大量輸送時代になり、海外旅行が身近になってきた時代でもあった。とはいうものの、40名もの団体を構成するには大手の旅行会社(当時は旅行代理店)のようによほどの販売力か集客力がなければこのバルク運賃も使うことができなかった。そこで、パッケージ旅行が作られてこれを契約代理店が小売りしていくという図式ができていった。また、お客様の中には、達者な方もおられ、どこかで団体旅行が募集されていると知ると、39番目、あるいは40番目を期待されることがあった。つまり、40名が最小限度であるが、どうしてもその人数に達しないときは、一人分、あるいは2人分捨てても(会社が泣く)団体を成立させるため、安売りをしたり、社にとって大切なお客様を招待したり、などの苦肉の策をとることもあった。  こうして、団体運賃のばら売り、というかたちの安売りが行われるようになり、次第にそれが一般化して他の様々な要因も加わって、旅行代金は値崩れし、安値合戦への道を歩み始めていった。 最後に、筆者の飛行記録について少し紹介させていただきたい。前述したように、筆者は、実際に搭乗した航空便など飛行記録を残している。勿論、パイロットやCA(キャビンアテンダント)にはかなうべくもないが、これまでに1,598回搭乗している。直行便だけでなく、寄港地もたくさんあるので、短距離から長距離まで様々である。昔は、欧州や米国東海岸などへは直行便(ノンストップ)ではなく、たとえば北回り  アラスカのアンカレッジ経由が多かったし、南回りということで香港、バンコク、インドのどこか(ニューデリーやボンベイ=ムンバイ)あるいはカラチやテヘラン、カイロなどを経てやっとアテネやローマはじめ欧州の諸都市に着くということが多かった。所要時間も北回りでコペンハーゲンまで15~16時間、南回りの場合は30時間近くかかることも珍しくなかった。とにかく遠かった。とはいっても、その昔は、船であったのだから、ぜいたくは言えまい。
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そんなわけで、これまでに飛んだ距離は322万マイル(航空運賃などの計算はマイルが基本)で515万km余になる。これは赤道を約129周したことになる。一度の移動で一番長かったのは、1974年4月3日に、RG(ヴァリグ航空)831便、TYO-LAX-LIM-RIOということで、12245マイル=19592㎞、同じフライトナンバーで地球をほぼ半周した長さである。今年、ブラジルでサッカーのワールドカップが行われるが、現地へ応援に行く方は予め覚悟しておいていただきたい。日本とは、地球のほとんど反対側なのだから。 この時は、飛行距離が長いだけでなく、ハプニングもあった。羽田を出る時、機が動き出したところ急停止、機長からエンジンが不調とのアナウンス。出発ゲートへ戻り、機外へ出されて待機。航空会社からの説明では、エンジンに鳥が飛び込んだとか、真偽のほどは不明。とにかく待たされること数時間、多分  明け方飛び立ったような気がする。当然、その時間だけ遅くなり、ロサンジェルスで一端出入国管理を通過して(今は乗り継ぎ客はその必要はあるまいが、当時は米国に寄港すると旅券検査が行われた)、リマへ向かった。6時間余り飛んでリマ上空へ達したが、濃霧のため着陸できなくてしばらく空中旋回。どのくらい待ったであろうか、このままでは燃料不足になるとのことで、リマから100㎞くらい南下したPiscoという軍用空港に緊急着陸して、機内待機。多分、2時間くらい待たされたと思う。やっと夜が明け、窓から外に目をやると、機の周りで銃を持った兵隊たちが監視していた。監視していたのか、守ってくれていたのかわからない。当然、機外には出してもらえず、やっとリマの天候回復を待ってリマ着、その後、リオへ向かった。 リオへ向かう途中、アンデス山脈を越え、ボリビアの上空を通る。赤茶けた大地に真っ青な湖、そして真っ白の広い土地があった。今考えると、最近人気が高まっているチチカカ湖やウユニ塩湖であったのではあるまいか。
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こうして、当初より、10数時間遅れてやっとリオデジャネイロのガレオン国際空港に到着し、世界的に有名なコパカバーナ海岸のホテルに着いた時は、お客様はだけでなく若さを誇っていた添乗員もまさに疲労困憊であった。多分、東京で最初に機内に入ってから40時間近くかかったのではないだろうか。南米大陸はとにかくスケールが大きい。そして、筆者にとっては、忘れられない思い出も多い。これは、また別の機会に書かせていただこう。   写真  上から、 パンナム B-747 初来日 (画像借用) ロッテ歌のアルバム (画像借用) 搭乗記録  最長距離 中ほど 囲みの部分 コパカバーナ海岸 (2014/05/09)