2014.06.25 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑩海外教育事情視察団添乗(その3 インドにて)

一期一会 地球旅

海外教育事情視察団に添乗して その3 インドにて

 海外教育事情視察団には、長短4回ずつ添乗した。そのうち、短期1回は予定してい た社員が出発の数日前に体調変化を来たしてドクターストップ(本当です!)。止む無くピンチヒッターとして3日前に某県教育庁に事情を説明し、かつての実績や今回の視察団のお世話は責任を持って履行します、と半ば誓約書に近いものを書いて、了承を得、空港でお客様に初めて挨拶。カナダのオンタリオ州コリングウッド、米国フロリダ州フォートマイヤースでの視察へ出発した。 その頃は、米国やカナダにはたびたび出かけて医療や福祉などたくさんの視察研修のお世話をしていた。従って、初めての訪問地であっても両国の社会や文化について総体的な知識と問題点などは十分承知していた。旅行中は、そのようなことも含めて案内し、勿論、通訳も団の代表として各地の行政機関などとのやり取りも滞りなく任務を果たした。結果としては、大変好評をいただき、30年以上過ぎた今も一部のお客様とは年賀状を交換させていただいている。禍福の転であったかもしれない。 70年代から90年代後半までの四半世紀以上、もっぱら福祉や医療関係の視察や研修旅行のお手伝いをしていたので行き先はこれら分野の先進国、主として西欧各国や北米、豪などが多かった。主要国はたびたび訪れていたので専門分野や社会事情についての知識や社会が変容していく様子は自分なりに理解していた。 一方で、教育事情視察は国または都道府県の主催で、行く先も先進国だけでなく、発展途上国(当時は後進国と呼んでいた)にも出かけた。当時としては、後者の国々へは観光で行くことも無かったので今となっては貴重な経験であった。そして、そのような機会を得たことを幸いであったと感謝している。その中から、強烈な印象のあることを書いてみたい。
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一つは、インドである。73年1月23日に出発して、バンコク、インドの首都ニューデリーを経て1月28日にボンベイ(現ムンバイ)に到着した。ニューデリーで数日間を過ごしていたので、機関銃のようなインド英語にも少しずつ慣れ始めてい た。 空港から町へ向かうバスの車窓から見た一つの風景は40年以上過ぎた今も脳裏に焼き付いている。低湿地一帯に、破れたテントかズック布のようなもの、あるいはトタンやベニヤ板など様々な材料で作られたおびただしい数の建物が連なっており、川らしい水たまりには汚物やゴミが溢れ、信じられないほど多くの人たちが住んでいるようであった。ガイド氏に言わせると何万人いるのかその数はおよそわからないとのこと。数年前に評判となった映画「スラムドッグ・ミリオネア」でムンバイのスラムが紹介されているが40年前に筆者が見た風景はさらにすさまじいものであったかもしれない。その目を疑うような風景から10数分バスで走った後、宿舎のタジ・マハールホテルに着いた。
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  この時の報告書には、「港町ボンベイには活気がある。ホテルは世界の十指に入る豪華なもの、4日間の生活も自ら心が弾む。」とある。豪壮なつくりはあたりを睥睨するような威圧感と威厳を感じさせる。そして、ロビーには優雅にサリーまとった女性たちやかつてはマハラジャであったのか?と思わせるような紳士の姿も見かけた。これもまたインドである。この貧富の差と社会階層の差をどのように解釈すればよいのか、その後も訪れる度に毎回感じるこの国の多面的な社会に驚きを禁じ得ない。
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タジ・マハールホテル前の広場の向こうには「インド門 = Gate of India」の堂々とした建造物がある。英国のジョージ五世とメアリー王妃が1911年にインドを訪れた時、これを記念して造られたそうである。そして、イギリス総督などの儀式的な入り口であったそうで、いわば植民地時代の遺物といってもいいのではあるまいか。現在のインドの人はどのような思いでこれを見ているのであろうか。 タジ・マハールホテルは、2008年に勃発したムンバイ同時多発テロで襲撃されて上層階にかなり大きな被害が出たと報じられていた。そして、テロリストたちの集合場所はインド門であったとか。 数年前にこのニュースを複雑な思いで聞いたことを改めて思い出す。
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先生方は、教育事情を視察するにあたって、この国を理解することをまず意識されたが、報告書を読むと、単一民族の日本人からはおよそ想像もつかないほどむつかしいインドの社会と文化に当惑された様子がよくわかる。端的に言うと、当時の国情は次のように書いて捉えられていた。 1.  政治形態 : 315万km2(日本の8.5倍)、人口は5億1千万:68年調査)、行政的には、21の州と9つの連邦直轄地から成り、首都はデリー(ニューデリー)   であるがこの国は連邦制であり、連邦議会と州議会、政府も同様。 教育は初等・中等教育は州政府の専管事項ということで必ずしも全国共通の教育が   行われているわけではない。 2.  経済 : 当時、インドは日本に次ぐ工業国で多くのものを国産していたが、人口が多く輸入が多いため巨額の貿易赤字を抱えて国家経済は厳しい。英国     から2百数十年にわたって支配されていたこの国はその間、富を取り去られ、開発はほとんど為されなかった。英国統治時代の傷跡をいやすのに依然            と して大変な力を必要としている。 3.  社会問題としてカースト制度の名残り : バラモン(祭祀をつかさどる)、クシャトリア(王侯など)、バアイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)等の階級制度があっ            た。紀元前10世紀ごろからあったらしく、1947年の独立後、カースト制度は廃止され、それまでの階級はいずれも平等を宣言されて教育の機会均等も          保証された。しかしながら、紀元前からの長い歴史の産物だけにインド社会では依然として精神的にも深く影響し、目に見えぬ教育上の障害となってい          る。 4.  言語 : 大陸といってよいほど広い国土で人口も多く、歴史的にも最近まで王侯が収めている地域があったり、人種的、民族的に入り混じっていたりして、   言語の種類が非常に多く、1961年の調査では公式分類でも826種の言語があったそうである。そのうち、14の言語が公式用語として認められたそうで            あるが、お互いの地域の母語が違うときはむしろ英語で話す方がわかりやすい、といわれる状況にある。
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このような複雑な政治経済、文化と歴史、社会構造などを頭に入れながら、マハラシュトラ州の州都であるボンベイ(現ムンバイ)の学校現場などを見学した。多分、実際に訪れたのは地域の優秀校であるとか、レベルの高い技術系高等学校であったような気がする。言葉の教育面では、英語、ヒンドゥー語、州語と三つを学ぶことが通常必要だそうで、これも驚きであった。同じインド人同士が話すときも英語をしゃべっていることが多いのはこういう背景があるからだと納得したことを覚えている。 インドは、今では、BRICsと称される新興経済発展国の一つであり、人口も当時の2倍の12億人を超えており、複雑な社会構造と貧富の大きな差は依然としてこの国最大の課題の一つである。一方で、情報産業など世界の先端産業の大きな担い手としてのインドとなっていることもまた事実である。アメリカのシリコンヴァレーはハイテク産業のメッカであり、IC(集積回路)はその中でも重要な存在であると承知しているが、昨今ではもう一つのICがあると聞いている。 それは、I=Indians、とすればもう一つのC=言うまでもあるまい。 インドにはその後も国際会議や視察、施設職員の旅行などで数回訪れているが、ニューデリー、アグラ、バンガロール、ジャイプル、マイソールなどいずれも興味深いテーマがたくさんあった。インドについて言えば行くたびにまた行きたくなる人、一度行くともう結構、という人 いずれかに分かれているような気がする。筆者はもちろん前者であり、行くたびにその奥深さを痛感する。 インドの後、イタリアを経てフランスのリヨンで教育事情視察、さらにパリで市内見学、ドイツ、英国からアメリカへわたり、様々な見聞を重ねて2月21日に帰国した。リヨンでは、大変厳しいというか、言葉の面で大きな試練を受けたがこれは別の機会に紹介させていただこう。 (2014/6/20) 小野 鎭 (資料) 海外教育事情視察団 出発を前に (記念写真も公的記録の一部として重要!) ムンバイのスラム(例 これは最近の様子 : 資料借用) タジ・マハール ホテル (2008年のテロリスト襲撃を受けた時の様子 資料借用) 海外教育事情視察団 報告書 ボンベイ(現ムンバイ)市内の技術系高等学校 (’70年当時)