2014.07.29 小野 鎭
小野先生の一期一会地球旅⑮児童福祉/保育関係の団体に添乗して

一期一会 地球旅

児童福祉/保育関係の団体に添乗して(その2) モスクワ経由欧州へ

  「国際児童福祉連合50周年記念会議」参加者のお供をしたときは、学生時代に児童養護施設で働いていた経験が役立ち、添乗業務だけでなく専門視察分野でも重宝がられ、旅行終了後は、主催団体や厚生省の担当部署、自治体関係でもよく覚えていただけるようになっていった。 結果としては少しずつ保育や児童福祉関係団体の仕事もいただけるようになった。 芸が身を助けてくれたということであろうか。 翌年(71年)日本保育協会の欧州保育事情視察団を担当する機会に恵まれた。この時のコースは面白かった。羽田からモスクワへ飛び、ストックホルム、ロンドンなどを回りパリに至ったのちスイス各地からローマへ出て、南回りで帰国、全行程20日間であった。多くの視察団の旅行期間は、観光中心の旅行よりは長いことが多く、平均して3週間くらいはざらであった。今と比べると多分2~3倍はあったと思う。千載一遇とまではいかないが、この機会にできるだけ多く回ってやろう、回らせてやろう、と参加者本人はもとより、主催団体でもそのような親心(?)があったのであろう。組織の役員や行政の管理職も多かったので、そのような要職にある方々がよくもそれだけ長期間にわたって席を空けることができるな、と驚くよりも、今と比べると良き時代であったというべきかもしれない。多くのことがゆっくりしていたし、それがあまり不思議ではなかったのではあるまいか。 また、それまでは北回りアンカレッジ経由が主流であったがモスクワ経由の欧州便が飛ぶようになり、少しずつ欧州への所要時間が短縮されるようになってきていた。当時は、まだシベリア上空をまっすぐ飛び越えて欧州へ出ることはできず、モスクワに一度寄港するというのがふつうであった。ソ連との外交関係や様々な事情によるものであったと解釈している。何時間も眼下に広がる広大なシベリアの大地、オビ川やエニセイ川など地図でしか見たことのなかった長大な河川が大きく蛇行して流れていることが興味深かった。
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モスクワでは定型的な滞在プランがあり、赤の広場やレーニン廟など、ある程度限られた名所旧跡などの市内見学の後、夕方ボリショイ劇場などで何らかの観劇またはサーカスの見物などもあり、これはごきげんであった。但し、写真撮影はその都度、ガイドにここはOKですか?と聞いたような気がする。 そのあと、鉄道でレニングラード(現サンクトペテルブルク)へ向かった。「赤い矢」という愛称のある夜行寝台列車で、モスクワのレニングラード駅(レニングラーツキー駅)からレニングラードのモスクワ駅(モスコーフスキー駅)を結んでおり、目が覚めるとどこまでも続く白樺の森を走っていた。駅の名前を聞くと何やら混乱してしまいそうであるが、モスクワからレニングラード方面へ行く場合は「レニングラード駅」、レニングラードからモスクワ方面へ行く場合は「モスクワ駅」ということであり、理屈がわかると理解しやすい。パリには「リヨン駅」というターミナル駅があり、フランス中央部リヨンやさらにマルセーユなどへの幹線鉄道の発着駅となっていることと同じような考え方であろう。今回、この文を書くためにホームページを繰ってみたらロシアの二大都市のそれぞれのターミナル駅であり、いまでは高速鉄道が4時間余りで結んでいるようであるが、一方では、「赤い矢」が歴史的な豪華列車として今も健在であるらしい。ソ連が崩壊してロシア連邦に変わると共に、レニングラードも「サンクトペテルブルク」と改称されている。エルミタージュ美術館始め多くの名所旧跡があり、ロシアを代表する観光都市でもあり、日本からの観光客も多く、40年以上たった今、改めて時の流れを感じる。 この時は、レニングラードでの観光を終えて夕方空路モスクワへ戻り、翌日コペンハーゲンを経てスウェーデンのストックホルムへ向かった。空港での親しげな入国審査や町までの貸切バスと窓外の風景、そしてホテルのロビー、客室、レストラン、町中の様子などはその日の朝まで滞在していたソ連とは大きな違いであった。スウェーデンは当時もすでに世界で最も豊かな国の一つであり、そのたたずまいとやわらかさにホッとしながら大きく胸を開いて力いっぱい新鮮な空気を吸った。そして、西側諸国の自由な雰囲気を有難く思った。一方では、鉄のカーテンといわれた東西間の緊張の中でなにやら緊張した面持ちで過ごしたソ連での数日間はやはり別の意味で今も懐かしい。 その頃よく言われていた西側の先進諸国で保育所や幼稚園、児童福祉施設などを訪れたが、スウェーデンのPlay Pen(プレイペン)と呼ばれた託児施設、放課後の学童などに人気のあるデンマークの冒険遊び場などを見学した。乳幼児や学童たちの保育や放課後から夕方までの時間を伸び伸びと安心して過ごさせることができるように工夫が為されていた。団員は、保育サービスの仕組みや実際の様子、児童の健全育成などの観点から興味深く視察されていた。少子高齢化が一層急伸する一方では共働き家庭やひとり親家庭が増えていることなどから学童保育がふえるなど社会のニーズが大きく変わって来ている。保育所などへの待機児童問題や子育てを巡る悲惨な事件を聞くにつけ、胸が痛む。 拙宅の一帯では夕方や週末になると近隣の子どもたちの元気な遊び声が聞こえて、うれしくなる。しかし、昨今では公園などでも子どもたちの騒ぐ声がうるさいから静かに遊ぶようにとたしなめたり、役所に苦情を言ったりする人もあるとか。 自分たちが子供のころはお姫様や王子様のようにお部屋で静かに遊び、騒ぎまわることも無かったのであろうか?子どもたちの遊び声が元気であることはうれしい限りではないか? 考え方の違い? 公園では、遊具などの故障や傷みなどで事故が起きるとその設置者(自治体が多い)が責任を問われることになるので、遊具などを撤去する例も出ていると聞く。ますます草食型人間が増えていく・・・ 自己責任や自主防衛を覚えることも必要であり、やがて海外などに出る時、平和がタダではなく、自分の身は自分で守ることを覚えなければならない。 プールに行くと、監視員が居て、事故を未然に防ぐことに日本ほど気を遣っているところは世界中にもあまり例がないと思われる。アメリカのホテルのプールでは、監視員が居ないこと、プール際は滑りやすいとか転倒しやすいこと、水深はこのくらい・・ などの細かい注意書きがあり、これらを承知の上、自己責任で利用してください、となっていることが多い。話が横道にそれたが、日本での常識が外では通じないことはいくらでもある。 一行の中に、福岡県にあるお寺の住職で保育園の園長でもある団員がおられた。苗字は省かせていただくが、旅行中はもっぱ
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ら禅戒和尚と呼ばれて団員にも人気があった。たまたま筆者が同じ県の出身とあって一層親近感をもって接してくださった。和尚は、画家でもあり、主として油絵であったと聞いているが県内では個展も開いておられたらしい。各地で寸暇を見つけてはスケッチされた。 そして、その姿を撮ってくれ、とたびたびカメラを託された。黒いベレー帽を被り、作務衣(さむえ)姿の飄々とした人懐っこい笑顔が今も目に浮かぶ。しかし、ひとたびスケッチブックに向かうと真剣なまなざしで教会や街路、公園、建物などをじっと睨み、やがて素早く鉛筆が動いていく。そして、その風景をカメラに収め、次へ向かわれる。帰ったら子どもたちに各地での風景を話して聞かせるのだ、と目を細めて楽しそうに語っておられた。帰国して数か月過ぎたころ、和尚から小包が届いた。開けてみるとパリの中心街にある「ヴァンドーム広場」の絵であった。今も私の部屋にかけてある。
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児童福祉関係では、他に資生堂児童福祉海外研修団に幾度も添乗させていただいた。化粧品を主として世界的な会社であるが、財団法人資生堂社会福祉事業財団を設置され、児童の健全育成を視点に児童福祉施設の職員などの研修を通じて幅広く支援しておられる。今日でいうところのCSR(企業の社会的責任)あるいは社会貢献活動のひとつであろう。 筆者は、オーストラリア、米国、カナダ、スイス始め欧州諸国などへお供した。少年審判や保護観察などの複雑な法律用語や専門語もあり、随分苦労した。手元にある報告書のページをめくるとそのころのことが思い出される。当時の研修団員諸氏は今も全国各地の児童福祉関係の施設長や研究者、関係団体の役員などで活躍しておられる方も多いし、年賀状を交換させていただいている方もある。 現地では、格別の指導をいただいた方々もあり、今も感謝している。その中の幾人かについては別の機会に紹介させていただきたい。  
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その後、顧客先は児童福祉分野だけでなく、障がい者、高齢者福祉、発達障害関係、医療・看護、年金関係などの分野へと広がっていった。 いま、振り返ってみると学生時代に学費と生活費を得るために勤務した4年近くの児童養護施設での経験が旅行業に就いたのち大きく役立ち、その後の人生にも影響していったことをしみじみ思う。     (資料 上から順に) ウクライナホテル(資料借用  70年当時はモスクワを代表するホテルの一つであった) パリ・ヴァンドーム広場 (作 禅戒和尚 1971年) 資生堂児童福祉海外研修団報告書(1992年度) 養護施設 錦華学院のころ (1963年1月) (2014/07/28)  小野 鎭